お久しぶりです。
中々ブログにまで手が回らずにいるこの頃、相変わらず気ぜわしい毎日を過ごしております。
今日も良い言葉に触れて頂きたいので、私の好きな言葉をアップさせていただきますね。
聖書のコリント前書と呼ばれる書があるのですが、初めて読んだときは綺麗な言葉だなと、余り意味も分からず、心が洗われたような気がしたものです。
ミサ曲としても有名で、信仰あるなしにかかわらず、知っておいて損はない言葉ですよ。
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たとえ人間の不思議な言葉、天使の不思議な言葉を話しても
愛がなければ
わたしはなる銅鑼(ドラ)、響くシンバル。
たとえ予言の賜物があり、あらゆる神秘、あらゆる知識に通じていても
たとえ、山を移すほどの完全な信仰があっても、
愛がなければ、私はなにものでもない。
たとえ、全財産を貧しい人に分け与え、たとえ、賞賛を受けるために
自分の身を引き渡しても、
愛がなければ、私には何の益にもならない。
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これは、目に見える成果、他人からの賞賛、仕事の貴賤に囚われがちな毎日に、「目に見えないたいせつなもの」に目を開かせてくれる言葉なのだそうです。
聖書的に言うと、雑用も愛が込められる時尊い物になるという事ですね。
つまらないという気持ちは、顔や動作に確実に現れるものですよね。
この世の中に雑用という仕事はなく、自分自身が用を雑にした時生まれるものである・・・という事らしいです。
目に見えるものに囚われがちだった若い頃に出会っても、深く受け止める事は出来なかったかもしれませんが、幸いにも年を重ねてからの出会いの言葉だったので、結構すんなり入ってきました。
何でも時があるのですね。
綺麗な言葉に出会えて感謝です。
家で管理していた朝顔が1か月半ぶりに花が咲きました。
可愛いですね。これはしばらく休んでいらっしゃるお年寄りにお渡ししました。
施設で管理していた朝顔も芽を付けた鉢から随時お年寄りにお渡ししました。
クリアな方達は、芽が出る事が楽しみらしく、きちんと説明書を見ながら育ててくれました。
「6個も花が咲いた」とか「可愛いですね。こういう機会を作って下さりありがとうございました」という言葉が所々で聞かれ、ほんとに良かったなと思いました。
植物を育てる事は子育てにも似ていて、芽を付けるまでは色々世話をしなければなりませんが、芽をつけ花が開いた時の喜びはたとえようもなかった事と思います。
こういう機会をもっともっと増やしていってあげたいと思います。
