スイマー(8) | 葡萄ヶ蔓社

葡萄ヶ蔓社

GRAPEVINEの楽曲と詞が織りなす世界観に着想を得た小説を載せています。
あくまでも、小説という形を取った個人の感想ですが、お付き合い頂ければ幸いです。

 愛の家までの道のりは途方もなく長く感じた。体操着姿の愛は濡れたままの髪と泣き腫らした目のせいか酷く幼く見えて、小学生の面影が残っていた。

「私、大地に何かした?」

気まずい沈黙を破ったのは愛だった。久しく訝しく思っている相手に単刀直入に質問を投げ掛けられて、僕は本当の事が言えなかった。

「別に。唯、一人になりたかっただけだよ。」

僕の適当な答えに愛は納得しなかった。

「嘘!今日だけじゃない。ずっと私を避けてるじゃない。」

僕が愛を避けていたことに愛が気づいていたことも驚いたが、それにも関わらず、怯まずに話しかけてくる愛の勇敢さに恐れ入って、僕は正直に、恨みがましくならないようにバレンタイン事件の話をした。黙って僕の話を聞いていた愛は少し考えてから、弁明を始めた。

「ごめんなさい。あの時は私だけ大地と話すわけにはいかない雰囲気だったから…。でもね、私は大地の悪口には加わらないようにしてたんだよ。」

考えてみれば、愛の言い分も納得できる。男子以上に集団社会に重きを置いている女子の群れの中で単独行動をするのはかなりの勇気がいるだろう。ましてや、小学生の女子にはハードルが高過ぎる。そう思うと、自分の感情だけで、長い間愛を避けていた自分の心の狭さが恥ずかしくなった。

「本当は、大地は何も間違っていないと思ってたんだよ。自分の思っていることはっきり言って、格好良いって思ったし。」

はにかんで俯く愛の顔に夕日が当たっていた。目の前にいる愛は仲違いをする前の小学生の愛のようで、僕は素直に話に耳を傾けられた。

「今日だってそうだよ。私はいろいろ言われてても、あんな風に抵抗できなくて、いつも聞こえない振りしてるんだ。本当はすごく嫌なのに。」

愛の告白は僕にとって意外だった。噂されることを愛がどう思っているかなんて僕は考えたことがなかった。それどころか、噂を本気にはしていないものの、実際、噂から僕も愛に勝手なイメージを持っていたことに気づき、後ろめたく思った。

「それにさ。親とか家の事情をあれこれ言われるのって滅入っちゃう。自分ではどうにもできないもん。うちのママなんか女の幸せは男次第だって思ってて、小さい頃から男受けするように女を磨く方法ばっか教えられて...。そんな教えでも子供にとっては親の教えが全てで、正しいと信じてたんだよね。でも、ママは未だに男運悪くて、さすがに最近はあれって感じ。」

話しながら、愛は泣き腫らした目を細めながら鼻をすすった。愛の母親の愚痴を聞きながらも、僕は洋平の時のように愛を羨ましいと思っていた。どんなに歪んでいてもそこには母から娘への教えがあり、二人の間に交流があるのが垣間見えたからだ。

 そうこうしているうちに僕たちは古びた集合住宅の前に来た。そこの二階を指さして自分の家だと愛が言った。

「今日はありがとう。また明日ね。」

別れの挨拶を終え、階段を上りかけた愛はすぐにこちらを振り返った。

「あのさ、親の再婚って微妙だよね。私もその気持ちわかるから。」

愛は言い終わると、再び前を向いて階段を駆け上がって行ってしまった。命の限り大音量で鳴いている蝉の声がそこら中から聞こえた。

 

 翌日、昨日の一件を機に愛が更に馴れ馴れしくしてくるかと思っていたが、愛の僕に対する態度は特に変わりなかった。時々目が合うと、一瞬微笑んだ後、恥ずかしそうに俯く仕草はむしろ奥ゆかしくさえ感じた。そう思うのは、僕が愛に対する色眼鏡を外したからなのかもしれない。

 洋平の目には僕と愛の関係が少し変わったように映ったようだった。部活の帰りにいつの間にかそんな話になっていた。

「間と仲直りできて良かったな。」

「別に喧嘩していた訳じゃないよ。」

僕は男子同士で女子の話をしたことが無かったので、洋平ともこういう話をする気にはなれなかった。しかし、空気を読み取るのが上手な洋平にしては珍しく、話題を変えようとはしなかった。

「大地は間のこと好きなのか?」

「そんなわけないだろ。」

洋平の意外な質問に驚きながらも、僕は直ちに否定した。

「別に良いじゃないか。男が女を好きになるのは自然だよ。」

僕が再び洋平の言葉を打ち消したことで、漸くこの話題は終わったが、僕はふと洋平は愛のことが好きなのではないかと思った。

 小学生の頃はこういう風に周囲の人々の気になる言動を度々潤子先生に相談していたことを思い出した。愛にしろ、洋平にしろ、最近僕の周りには些細な変化が見られ、僕一人では解明できない。しかし、今、僕の中で一番不可解なのが父さんと潤子先生の結婚とそれに対する僕の感情だったため、潤子先生に相談することはもうできないのだと実感した。

 秋には父さんと潤子先生が入籍する予定だ。だから、それまでに僕はこの感情に決着を付けなければいけないと焦っていた。

 その夜、また例の夢を見た。夢の中で僕は変わらずに暗闇に浮かんでいた。意識はあるようなのだが、笑っているでも、泣いているでもなく、自分でも感情がつかめない。まるで母親の胎内にいる胎児のように自分が生まれる瞬間を待っているようなのだが、辺りは限りなく闇が続いていて出口らしきものが何処にも見当たらない。目が覚めてから、まるで行き場のない僕の感情を示しているようだと思った。

 僕がこの不安とも違和感とも言えない感情を抱えたまま、夏休みを迎えようとしていたある日、潤子先生から連絡が来た。夏休み中に二人きりで久しぶりに会いたいという話だった。僕はそれを聞き入れて、潤子先生と会う約束をした。正直、気は進まなかったのだが、そうすることで僕の気持ちになんらかの決着をつけられるのではないかと思われた。