スイマー(3) | 葡萄ヶ蔓社

葡萄ヶ蔓社

GRAPEVINEの楽曲と詞が織りなす世界観に着想を得た小説を載せています。
あくまでも、小説という形を取った個人の感想ですが、お付き合い頂ければ幸いです。

 小学校を卒業すると同時に僕はスイミングスクールを退会した。中学生になると、選手コース以外のクラスの生徒のほとんどがスクールを退会する。この時点までに頭角を現さない生徒にとって水泳は将来性の無い不要出費と見なされるらしい。僕もそんな空気を読んでスクールを退会し、代わりに学校の水泳部に入部した。水泳を続けようと思ったのは、何だかんだ言っても水泳は僕の唯一の特技であるのと、どうしても水中を離れたくなかったからだ。

 水泳部には水上洋平も入部していた。洋平はジュニアオリンピックでも好成績を残していたので、僕はすぐに洋平が全国中学水泳競技大会に出場するためだけに水泳部に所属するつもりだと悟った。おそらく洋平はスイミングスクールで練習を行うことになるので、僕と洋平が部活で顔を合わすことはほとんどないだろうという僕の予測を覆し、洋平は休まず水泳部の練習に姿を現した。後でわかったことだが、洋平はスイミングスクールを退会していた。スクールの選手コースに残る権利を得ながら、洋平がわざわざ練習環境が劣るこの部で泳ぐ意味が僕にはわからなかった。唯、そういう意外な行動には複雑な感情が絡んでいる気がして、僕は敢えてその理由を洋平に尋ねようとはしなかった。理由はともあれ、僕は洋平が僕と同じ選択をしたことに共感を覚え、何より洋平とまた同じプールで泳げることに胸を躍らせた。

 僕たちが部活で再会した時、最初に声を掛けたのは洋平の方で、最初は挨拶を交わす程度だった。洋平とは別のクラスだったが、部活では毎回顔を合わせていた。洋平の水泳に対する姿勢はスイミングスクールの頃と変わらず、他の部員の何倍も泳ぎ込んでいた。弱小水泳部に現れた新星に顧問の先生も一目置いていたため、洋平は多少の居残り練習も容認されていた。僕はこれに便乗して、スイミングスクールの頃のように洋平が泳ぐ隣で泳がせてもらっていた。他の部員は先に帰ってしまい、大概残っているのは二人だけだったので、いつしか僕たちは一緒に帰るようになっていた。

 中学生になって、僕は中学校というこの限られた空間に多数の縦社会が存在していることに気づいた。教師と生徒、先輩と後輩を初め、同輩社会にも目に見えない上下関係が乱立している。小学校では、運動神経が良いとか絵が上手とか何かしら特技のある人間が尊敬されていたのに対し、ここでは自己主張の強く、存在感が大きい人間が優位に立つ風潮がある。見掛け倒しでも、素行不良による悪目立ちでも、声の大きい人間に従わなければならない空気がある。僕はこの社会で中流階級を維持することに努めた。教師に反抗したり、校則違反をしたりしている、所謂、不良グループは心の中で軽蔑していた。彼らの行動に軽蔑していたのではなく、そこに理由が無いことに共感できなかった。しかし、それを悟られないように、僕はそういうグループとつるむことなく、それでいて睨まれない適度な距離感を保っていた。そんな中、洋平だけは心から尊敬していた。

 洋平は水泳だけでなく、他のスポーツもそつなくこなし、勉強も学年トップだった。身長も高く、水泳で鍛え上げた肉体は男性でも惚れ惚れしてしまう程で、当然、女子にも人気があった。洋平には誰もが認める実力を兼ね備えた者の威厳があり、声を上げずして地位を獲得していた。洋平は中学生男子特有の悪ノリとか空元気とは無縁で、いつも冷静で落ち着いていたので、僕は洋平と居ると気が楽だった。いつしか洋平の前では自分を偽ったり大きく見せようとしたりする必要が無いことを悟り、素直に自分の気持ちを伝えられるようになっていた。

 一年の夏が終わる頃、部活が終わった後、プールで泳ぐ洋平を見ていたら、秋風が僕の頬を撫でるようにふんわりとスイミングスクールでの光景が僕の脳裏に蘇ってきた。一通り練習メニューを終えた僕たちはプールサイドに座り、息を整えていた。

「僕はずっと前から洋平の泳ぎが好きだったんだ。」

あの時は言えなかった洋平への憧憬がするりと僕の口から出て来た。それを聞いて洋平は少し照れたようだった。

「僕は大地の泳ぎの方が好きだ。」

思いがけない洋平の返しに僕は少し驚いたが、すぐにこれは洋平のさり気ない気遣いから出たお愛想だと思った。

「本当だよ。大地の伸び伸びと泳ぐところが好きだ。楽しそうで、羨ましいよ。」

「よせよ。僕は選手に選ばれなかったから、自由気ままにやれただけさ。目標を持って泳いでいた洋平のほうが数倍恰好良かったよ。」

僕は素直に洋平を褒め称えたつもりだったのだが、僕の言葉に洋平の表情は曇った。

「目標か…。あの頃の僕の目標はお父さんを喜ばせることだけだったんだよ。」

洋平は物憂げに呟いた。洋平が父親の話を始めたので、僕は少し身構えた。自分の家族が他と違っていることを自覚していたので、家族の話題は苦手だったが、僕は黙って洋平の話を聞いた。

「僕のお父さんは教育熱心でさ。僕は小さい頃から勉強でもスポーツでも上を目指すように教えられたんだ。だから、僕が選手コースに選ばれた時、お父さんは随分喜んでくれて、僕もそれが嬉しかったから、もっと頑張ろうと思ったんだ。」

洋平の猛練習の裏にはそんな理由があったのかと僕は納得した。

「でもさ、僕は私立中学の受験を失敗しちゃって…。これからは勉強に重きを置くために、スイミングスクールを退会することになったんだ。僕の今までの努力は何だったのかと思ったよ。」

洋平の話を聞きながら僕は洋平を気の毒に思った。そう思いながらも、洋平を羨ましく思っていた。洋平に自分の教育を施した洋平の父親とそれに応えようとした洋平、多少のすれ違いはあっても、二人の間には確かに親子の交流がある気がした。

「落ち込んでいる時にふと大地の泳ぎを思い出してさ。僕は水泳を楽しむことを忘れていたことに気づいたんだ。中学で水泳部に入って、また大地に会えて本当に良かったよ。大地のお陰で、今は水泳が楽しいんだ。」

嬉しそうに話す洋平の笑顔が残暑の夕暮れに照らされて輝いていた。それを聞いて、僕は頬が紅潮しているのを感じたが、夕日のせいで洋平に気づかれずに済んだことにほっとしていた。

 家に帰ると、僕は父さんの書斎に入って、書棚に並ぶ本を見つめた。洋平と洋平の父親の話を思い出していた。洋平の父親の教育方針を僕は正しいとは思わない。それでも、洋平の父親は息子に人生の指標を示していたと思う。現に洋平はその教えの下で立派に成長している。一方、父さんは僕にどんな人間になってほしいのだろう?父さんは大勢の生徒を前に社会学を教えている。それは彼らに何らかの人生の道標を示すことに等しいのではないだろうか。なのに、父さんは息子の僕には何も示しくれない。放任主義と言えば聞こえは良いのだが、ふと僕に関心が無いだけではないかという考えが頭の中を過った。僕は父さんを知りたくて、ここにある本を読み漁っていたが、結局、答えはどの本の中にも書かれていない気がして、遣る瀬無く本の背表紙を見つめていた。父さんの机にはいつも通り父さんと母さんの結婚式の写真が飾ってあった。写真の中で二人は幸せそうに微笑んでいる。そこに僕はいない。大好きだった写真のはずが、今日は見るのがつらかった。