前回江戸幕府が幕藩体制維持の

ための思想的根拠として

輸入加工した朱子学が

日本人の心のなりたちに

影響を与えたと申し上げた。

 

朱子学導入は、幕府、

いや徳川家の権力維持のために、

国家の名をかりて行った

単なる私的行為なのである。

 

私はこの朱子学が大嫌いだ。

 

時々日本人に対して大幻滅を

抱く時がある。きっとそれは

江戸時代の輸入加工品朱子学の

所為ではないかと疑っている。

 

こうして、

江戸約260年間人々はこの思想を

基準に善悪を判断してきたのである。

 

そして、その後も…。

 

朱子学嫌いな一人である司馬遼太郎は

竜馬の口から、

「戦国時代に領地をとった将軍、大名、

武士が二百数十年無為徒食して

威張り散らしてきた」

のが江戸時代だと言わさせている。

 

 

水戸藩というのがある。

 

黄門様で有名な

幕府の御三家の一つである。

 

しかし、他の尾張・紀伊とは

明らかに差があった。

官位も低い。

しかも、将軍にはなれない家

でもあった。 

 

十五代将軍の徳川慶喜は

水戸藩出身だが、特殊環境により

将軍になりえたのである。

 

水戸家からは直接将軍になれないので、

一旦御三卿の一つ一橋家を相続し、

そこから将軍になっている。

 

従って、

形式的には江戸時代を通じて

水戸藩から直接将軍は

出ていないことになる。

 

江戸初期この水戸藩を

何故作ったのだろうか?

 

それは、

家康が用意周到であったからだ。

将来幕府体制が弱まった場合でも

徳川家が生き残れるようにあえて

水戸藩を作ったのだ。

 

つまり、水戸藩は朝廷工作専門の

徳川家維持の為の特別な藩だった

のである。 

 

その水戸藩で儒学思想を中心に

国学・史学・神道を結合させた

水戸学ができた。

 

桜田門外の変は

斉昭と井伊直弼との確執も

さることながら、この水戸学の

尊王思想が元々の原因である。

 

徳川を守るために輸入した朱子学と

この水戸学が融合して

幕末に尊王思想が大流行した。

 

(水戸学の精神的支柱: 藤田東湖)

 

徳川御三家の一つ水戸藩が

いわゆる志士達に倒幕の思想的根拠を

与えたというのは徳川家にとっては

たいへん皮肉なことであった。

 

東照大権現様も

まさかの顛末だったに違いない。

 

とにもかくにも、水戸学も絡まり

変質した朱子学エネルギーを使い、

倒幕をなし、明治を迎えたのである。

 

そして、この思想は戦前の一般人も

さることながら、軍部の中にも

巣くうことになるのであった。

 

五・一五事件も二・二六事件も

この水戸学思想がなければ

起きなかったはずである。 

 

昭和の日本帝国軍人達はアメリカの

圧倒的物量のデータを得てもなお、

精神力で勝てるなどと本気で

思うほど頭が麻痺してしまったのだ。

 

このブログの読者は既に知っているが

本当の意味を逸脱した「大和魂」を

誇張し喧伝し物量差など物の数ではない

と自分達も一般民衆も自己陶酔させて

しまったのである。

 

明治の軍人はそこまで

麻痺してはいなかった。

昭和の軍人よりはもっと現実的

且つ論理的であったといって

よいであろう。

 

日露戦争が終わった頃から

軍人の頭が徐々におかしくなって

いったように思えてならない。

 

これはどうしてだろうかと

いつも疑問に思うが、

今日はその話題ではない。

 

いずれにせよ、

朱子学が水戸学へと形を変え

日本人の心のなりたちに

大きな影響を与えていると

申し上げておきます。