前回は七五調のリズムと
直接表現を避け察する性格を
醸成したのが和歌ではないか
と申し上げた。
その和歌の影響はもう一つある。
言霊(ことだま)信仰である。
和歌より言霊の方が先にあった
ような気もするが、定かではない。
言霊信仰とは
死ぬとか病気等忌み嫌われる
言葉を使うとそれが現実となる
という信仰である。
誰かを殺したい場合呪詛するのも
これからの派生である。
当時、呪詛はそれが成功した場合
(相手が死んだ場合)は殺人罪、
失敗した場合でも殺人未遂罪に
なったのだ。
SNSで「死ね」「殺す」等の
言葉を特定の人に浴びせるのは
まさに呪詛である。
罪に値する。
鎌倉時代モンゴルが攻めてきた
いわゆる元寇の時、武士が
戦闘するため現地に駆けつけた
ことは周知のこと。
一方、朝廷の貴族は京都にいて
何をしていたか?
それは朝から晩まで和歌を
作っていたのである。
決して遊んでいたわけではない。
侵略者をやっつけるという意味で
彼等は必死に和歌を作ったのだ。
神風が起こり、モンゴルが撤退した
のは自分たちの和歌のおかげである
と思っていたに違いない。
現代の我々は彼等貴族の姿を
笑うであろう。
しかし、我々も多かれ少なかれ
未だにこの手の言霊信仰から
完全に逃れてはいない。
どんよりとした雲の中
ゴルフ場に向かう車中で
「雨が降りそうだ!」などと
言うと皆から口を抑え込まれる
のもその類。
受験生の前で
「すべる」「おちる」を
言わないのもその類。
結婚式で、
「わかれる」「きれる」と
口からもれるだけでビールを
かけられるのもその類。
このように述べてくると
私は言霊信仰を100%否定
しているように読者は思うかも
しれない。
しかし、さにあらず。
100%正しいとは思わぬが
幾分正しいかもしれぬ
とも思っている。
また、
もう一つ誤解しないで頂きたいのは、
私が和歌は嫌いではないということ。
むしろ、あの遠回しの表現が
たまらなく脳に心地よいのである。
さらに、
私が帰依している神道と
言霊はきってもきれない。
というより、同一性すら感じる。
私は両方認めています!
ただ、よい塩梅で使うべきでしょう。
ああ「塩梅」、
何と日本的な表現なんだろう。
きっと私は漱石に褒められるに
違いない。
(どんどん続く)