敗戦時、

「折口君、戦争中の日本人は

桜の花が散るように

潔く死ぬことを美しいとし、

我々もそれを若い人に強いたのだが、

これほど潔く死ぬことを美しい

とする民族が他にあるだろうか。

もしあったとしても、

そういう民族は早く滅びてしまって、

海に囲まれている日本人だけが

辛うじて残ってきたのでは

ないだろうか。

折口君どう思いますか?」

 

こう問いかけているのは

柳田国男であり、

折口君は折口信夫である。

 

両者はいわずもがなの

民俗学の大家。

 

柳田は折口の師匠。

 

但し、両者の思考方法は違う。

 

柳田は民族現象を比較検討し

帰納法的に日本文化の起源を

遡ろうとした。

 

一方、

折口はマレビトやヨリシロという

独創的概念に日本文化の起源が

あると想定し、それを核に諸現象を

解明するという演繹的な性格を持つ。

 

しかし、

今日の話題は両者の比較ではない。

 

テーマは大和魂の謎なのである。

 

新渡戸稲造が櫻花と薔薇との比較で

大和魂を説明した。

(2021.03.31「櫻花」参照)

 

「太陽東より昇って

極東の島嶼を照らし

桜の芳香朝の空気を匂わす時、

いわばこの美しき日の気息(いき)

そのものを吸い入るにまさる

清澄爽快の感覚はない」

 

というのが大和魂のベースであり、

 

「薔薇は甘美の下に棘を隠せること、

その生命執着すること強靭にして、

時ならず散らんよりもむしろ

枝上に朽つるを選び、

あたかも死を嫌い恐るるがごとし」

 

が他国の人々のベースだと言う。

 

我々日本人の祖先は、

大陸での凄絶な競争社会の

落ちこぼれなのではないか

という人もいる。

 

奈良の正倉院が

シルクロードの終着駅と

いうのも何となく分かる。

 

大陸の THE END が

日本なのである。

 

民族的には

人と争うのも嫌い、

嘘をつくのも嫌いだが、

名誉は重んじる。

 

争って負けたり、

嘘がばれたら、

短絡的に潔く死ぬ。

 

 

どう考えても

枝上で朽ちようとする

薔薇的ではない。

 

大陸で

競争に負けたり、

争うことが嫌な人々が

最果ての地日本に

逃げてきたのではないか?

 

彼らが

既に住んでいた人々と交わり

溶けてできたのが大和魂。

 

勇敢なのだが、

長期戦には勝てない。

 

特攻隊がその典型的な例。

 

 

まなじりを上げ、

必死の形相で

突っ込むのだ。

 

ニコニコ笑いながら

相手を刺すようなことは

決してできない日本人。

 

こういうと、

日本人は弱いのかと

思うのではないですか?

 

弱いのではない。

 

お人好しで優しいのである。

恥ずかしがり屋でもある。

 

どこの民族やどこの国よりも

そうだと思う。

 

柳田も折口も

なんとなくそれが

分かっていたのでは

ないだろうか。