我らがヒエダノコレ様の祖先

ヒエダノアレが口伝し編纂(?)

したといわれる古事記、

さらに本格的史書としての

日本書紀は当時の天皇が

自発的に作ったものだ

とばかり思っていた。

 

だから、天武天皇や持統天皇は

偉いもんじゃと思っていた。

 

しかし、現在日経新聞連載小説

「ふりさけ見れば(安部龍太郎著)」

によると、どうやら「自発的」に

やったものではないらしい。

 

白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に

大敗した影響がまだ色濃く残っていた

大宝二年(702)に粟田真人

(あわたのまひと)を全権大使として

遣唐使が派遣された。

 

唐との正常化を目指して40年ぶりに

正使の使者を送ったが、交渉の前提

として唐側が示した条件が下記四つあった。

 

①律令制度を導入し、法治国家にすること。

②仏教を国家の基本理念とすること。

③唐の長安にならった条坊制に基づく都

 を築くこと。

④国史を明らかにし、天皇の由緒の正しさを

 示すこと。

 

大宝律令が701年に完成していたから、

おそらく上述四条件は事前に通告されて

いたのだろう。

 

①は唐に持参して不備がないかどうかを

チェックしてもらった。かつかつセーフ。

 

②は寺を建て僧を要請して仏教の教えに

従った国造りを急ぐということでOK。

 

③は694年に条里制に従い藤原京を既に

造営していた。しかし、天子南面の原則

(大内裏は都の一番北側)に背くという

ことで再築を命じられた。

 

④は苦労した。

 

712年になんとか古事記を編纂し、

五年後に派遣された

多治比縣守(たじひのあがたもり)

に託した。

 

彼は古事記を唐の顕官達にみせた。

 

彼らは、

「老婆の昔語りか、

貧乏文士の伝奇物のようだ」

と手厳しい。

 

 

周王朝以来の膨大な史書の水準と比べると、

確かに古事記が「史書」とは言い難い。

 

そこで、養老四年(720)に日本書紀を

完成させた。

 

一大プロジェクトだったのだ。

 

苦心惨憺の賜物である日本書紀に対しても、

 

「天皇家はどこから日本に渡り、

大和に朝廷を築いたのか?

記述の根拠を示せ!」

 

唐朝の審査会は辛辣だった。

 

確かに古事記はギリシャ神話的であり、

史記というより叙事詩的ですらある。

 

日本書紀は史記に近づけたが、

天皇の由緒という点に関しては

かなり曖昧だった。

 

その当時きっちり記載していれば、

天皇の起源に関する現在の論争は

なかったであろう。

 

とにもかくにも、

敗戦国日本としては、

当時の超大国であり戦勝国でもある

唐の意見には逆らえなかった。

 

この状況はなにかに似てないか?

 

第二次世界大戦で敗けた日本と

戦勝国のアメリカとの関係と

酷似しているように思うのだが…。

 

いずれにせよ、

日本最古の史書であり、

日本の歴史学者が一級歴史資料と

評価している古事記も日本書紀も

外圧により無理矢理編纂された

ものなのである。

 

苦労して編纂はしたが、

日本人の曖昧さも影響してか

結局は明快さに欠ける書物

となってしまった。

 

さらに、

奈良の都も京の都も自発的に

開発して造成したわけではなく、

唐の冊封国家になる為に

唐の指示に従い、

造成した都なのである。

 

この関係は菅原道真の進言で

894年に遣唐使が廃止される

まで続くのである。

 

現在我々が認識している

日本独特の文化というのは、

その後の国風文化から始まり、

室町時代に完成していくのだ。