高橋是清は1854年に

狩野派の絵師川村庄右衛門(47歳)と

奉公人のきん(16歳)の息子として生まれた。

いわゆるお手付きで生まれたので、

だれからも祝福されることはなかった。

 

母のきんは生んだ後、

家を出され他家に嫁いでいった。

 

庄右衛門が幕府の御絵師だったこともあり、

生まれて直ぐに仙台藩足軽の高橋家に

養子に入った。

 

是清はかなり幼い頃から優秀だったらしく、

今でいえば小学生の頃、横浜のヘボン塾で

勉強させてもらった。

 

ヘボンといえば我々が学校で習っている

ローマ字はヘボン先生が考えたものだ。

 

その塾でも優秀だったこともあり、

1967年に藩命で米国留学をすることになる。

あの勝海舟の息子小鹿と一緒にである。

なんと、13歳!

 

ところが、その渡航の世話をしていた

米国貿易商に学費や渡航費を

着服されてしまうのだ。

 

さらにホームステイ先でその貿易商の両親に

騙されて、英語で書かれた(当たり前か!)

年季奉公の契約書にサインさせれてしまうのだ。

 

奴隷になってしまったのだ。 

 

しかし、彼はそこで泣いたり

わめいたりはしなかったようだ。

いくつかの家を転々としたらしいが、

各家の人達に非常に好かれていたというのだ。

おそらく、明朗で活発で頭も良い是清を

皆が可愛がったのだろう。

 

思い起こすに、小生の13歳は

初めて両親を離れ寮に入った年齢だ。

確かに寮長は米国人だったが、

それ以外は全て日本人。

 

なんといっても奴隷ではなかった。

 

周りが全て外国人で奴隷労働もさせられる環境に

13歳の自分が置かれたらどうなっているだろうか。

 

気が狂ったにちがいない。 

 

その後、米国人の親切な人が

そもそもの契約が違法ということ

で年季奉公契約は無効とし、

日本に帰国できることになった。

 

帰国後、文部省に入省し英語の教師も務めた。

 

英語の生徒の中には、

バルチック艦隊を撃破した秋山真之や正岡子規がいる。

司馬遼太郎の「坂の上の雲」にも登場する。

 

その後は農商務省や特許庁などに出仕するが、

35歳の時、ペルーの銀鉱山事業に手を出すが

大失敗に終わり、無一文になった。

 

けれども、持ち前の明るさもあって人気がある。

実力もある。

 

数年浪人した後、

人のつてで日本銀行に入行することになる。

 

日銀入行を勧めた人には

是清に頼みたい事があったのだ。

 

それは、当時日本はロシアと不穏な雰囲気があり、

それが為日英同盟を結んだ時だった(1902)。

もし、ロシアと一戦あれば戦費が足りない。

その戦費調達に是清が必要だったのだ。

 

日露戦争は現実のものとなった。

(1904-1905)

 

直ぐに是清はロンドンに向かった。

 

当然世論は日本がロシアに勝てるとは

思っていないので日本の公債を買うはずもない。

あの、ロスチャイルドも見向きもしなかった。

 

金額的には当時日本の国家予算60年分である。

ネガティブな人ならおそらく

茫然自失するような仕事である。

 

しかし、是清は走り回る。

 

喋りまくる。

 

そして、ドイツ系米国人ジェイコブ・シフ等が

公債を買ってくれることになったのだ。

 

それで、やっとこさロシアに勝利できたのだ。

 

その後、

大蔵大臣や内閣総理大臣を務めることになる。

 

1929年世界恐慌を乗り越えたのも

隠居していた是清である。

 

日本の大恩人である是清も二・二六事件で

正義面しているアホな若手軍人に

暗殺されてしまう。

 

アホの暴力は虚しい。