今日は韓国からの視察を受け入れました。
韓国籍の方が目黒に会社を有しており、その会社では韓国で営農型太陽光発電を展開したいとのことで、私どもの会社の営農型を見に来られたとのことです。
1号機、2号機、3号機、5号機、6号機を見学されました。
7号機に行こうとしたら「もういい」とのことで。
上記の発電所は「藤棚式」、7号機は「アレイ式の変形の一本足」なので、その互いを見てもらおうとしたのですが、あんまり興味がなかったようです。
外国の方というのは反応が今一つよくわからないので、大丈夫なのか?とも思うのですが。
午後は午後で営農型のコンサル(主に補助金の申請と農転申請)をしてほしいという方との電話での打ち合わせ。これは1時間くらい電話していました。
明日は、アップデーターさんの視察もあります。
土曜日は埼玉県小川町で営農型太陽光発電をしたいという方の視察と講演を致します。
日曜日は小田原で講演をします。午前中は補助金の二次審査のプレゼン、午後が講演。
先週から今週は講演と視察の中で震災を忘れないということで開催した
「かなごて流域祭」
を企画したりしまして、なかなか忙しい日々を送っています。
考えてみますと、14年前の3.11は金曜日でした。
当時は平塚郵便局員として保険のセールスマンをしていました。
保険セールスに燃えている時期で、この年に私は郵便局で初めて
営業最高優績者
になりました。
その時に、そのことにまっしぐになりつつも、この震災が起きて
果たしてこのままの人生でいいのか?
そんなことを思わされ、そして、3年間のあがきを経て郵便局を退職して、この今歩んでいる道を進むこととなりました。
3.11と原発事故がなければ、間違いなく、自然エネルギーを作るという仕事を生涯の仕事とすることはありませんでした。
僕の人生を大きく、大きく変えた東日本大震災と原発事故
多くの人が希望や夢を遮断され、大切な故郷に帰れないという経験をしました。
それから14年たって、この国は、その人たちに顔向けができる状態になっているのか?
確かに、その時まで僕のような素人が電気なんて作れるなんて思いもしなかった。その世の中が劇的に変わったことは確かではあるのだけど、
東日本が壊滅するかもしれない
5000万人をどこに避難させるのか?
等という
日本沈没
のような状況にあったことなど、どこかへ行ってしまうほどに、この国は守旧派の力が強まり、原発は国民の多くが問題と思っていても「必要悪」と言わんばかりに再稼働にのめりこんでいる現実で、
とてもとても、そうした被害にあわれて命を落とした人たちの御霊に顔向けなどできない状態が続いているのではないか?と思うのです。
私自身、大きく人生を変えさせることにつながったこの東日本大震災からの教訓というものを心の十字架としてとらえて生活をしているとも言えます。
私が死ぬときには、この国の全ての原発が稼働停止をしている
この国が原発以外の持続可能なエネルギーでまわっている社会を作りたい
それが、僕が目指すべき東日本大震災を経験したものの、そして、それまで、原発のことを何も考えずに許容してしまった人間の贖罪と思っています。
兎に角、現実を創ること
ただただこのことにこだわり、ゆるぎない信念を持ち、自分が作りたいの未来のためには相手がどんな人間であっても敢然と立ち向かう。
そして義を尽くして裏切らない
そのことが自分のポリシーとして確立されています。
小田原市長選挙やあさか由香さんを擁して戦った2022年の参議院選挙を経て僕の心がゆるぎないものになったような気がします。本当の意味で
ぶれない自分、わきをしめる自分
郵便局の先輩に言われ続けて出来なかったことが
やっとやれるようになったかもな、というのが
40でしたね。
40にして惑わず(不惑)とはよくいったものです。
その確立ができたのが2020年。
覚悟が全く違う次元になりましたからね。
その思いを忘れず、被災地に寄り添い、また、15年目の311に向けて
ひたむきに、まっすぐに、全力で、死力を尽くして
原発ゼロ・自然エネルギー100社会を作るために
若者たちと共に汗を流して頑張ります。






