1週間前、帯広の国枝恭二さんが亡くなられた。
それを知ったのは数日前のFacebookの投稿だった。
元日本商工会議所青年部の会長。確か平成18年の会長であったと思います。
私が国枝恭二さんに会ったのは2011年の冬位だったと思います。
エネルギーから経済を考える経営者ネットワーク会議の設立に参画していた私は代表の鈴木悌介さんを支える事務局として理事である国枝恭二さんにお会いしたのが始まりです。
以来、至らない事務局をサポートしてくださいました。
北海道はエネ経会議の重要な拠点の1つで、はじめて訪れたときに、雪氷で温水を作り、それをハウスの中に育つマンゴーを作るのに利用する
奇跡のマンゴーを作る様子を見せてくれたり、大畜産地帯ですから、畜産の糞を活用した大型のバイオマスプラントを見せてくれたり
本当に何度となく、イベントや視察等をやってくれました。
その時のどんな人に対しても気の抜かないおもてなしや優しさはとても印象深く残っています。
事務局長を退任する時に電話かメッセージをしたのが最後になりました。
会社にも薪ストーブのボイラーなどなどを取り入れたりされていてそれも見に行きましたし、
ロフトというイベントスペースにいくと、エネルギーだけではない様々なテーマでまちづくりを担う人がいて、若い頃の自分も随分と刺激をもらいました。
それが今の私の地域づくり、まちづくりの大きな原点の1つでもあります。
もう一つ印象に残っているのは今では小田原市民もほとんど忘れていますが
第一次加藤憲一政権が出来る前年に小田原箱根商工会議所の会頭を決める選挙がありました。2008年です。
その時、当時の市長、小澤よしあきとベッタリの原義明会頭に、今、会頭をしている鈴木悌介さんが立候補
商工会議所の会頭選挙なんてやる前から実は決まってることばかりですが、このときだけはホントに選挙になり
まあ、亀裂がはいるわけだから、なにやってるんだ?鈴木悌介は?となるわけですが、
全国からの応援、真っ先にやってくれたのが、当時日本商工会議所青年部会長だった国枝恭二さんでした。
その時の檄文を読んだことがありますが、なかなかリスクな事柄に友情で応える国枝恭二さんの男気にえらく感動もいたしました。
結局この闘いは現職の原会頭が47挑戦者鈴木悌介が43だったかで、辛うじて現職が勝ちましたが
これは翌年の市長選挙の前哨戦といわれ、加藤憲一市長が誕生する布石にもなりました。
まあ、このときは鈴廣の鈴木悌介さんと加藤憲一さんは仲がよかったのです。
それが2020年にはその鈴廣たちが加藤憲一市長をひきずりおろすために、ある種の汚い手を使うことにお墨付きを与える存在になってしまうわけですから
世の中、一寸先は闇ですね。
そしてその事で、今でもそうはおもってますが人生の師たる鈴木悌介さんと私は袂をわかつことになり
以来、2021年の3月30日を最後に、今日の今日まで1度の会話もしてません。こんな同じ小田原に居ながらにして一度も会わないのだから
ご縁が切れている
そう、いえるでしょう。
あの大きな体に大きな手、笑うときの豪快なそれをもう聴けないのか?と思うとホントに寂しいです。
北海道には二宮尊徳の一族が入植した豊頃町というとこがあります。確か、菜の花プロジェクトやバイオマスをやっている為広さんと国枝さんに紹介して貰い、その現場を色々巡らせてもらった記憶があります。
いつ、帯広にいけるか?わかりませんが、もし、帯広に行く機会があれば、必ず墓参したいと思います。
どうか安らかにお眠りください。国枝恭二さんが情熱を注いだまちづくりは私にその思いとしてしっかり引き継いで参ります。
合掌。
