母と私はよく似ている。
顔もだが、性格もだ。
いわゆる「見た目そっくり」という意味ではなく、互いに自分の特徴にプライドがあったりこだわりがあったり、そういう度合いがよく似ている。
そこに気づくのに私は50年かかったわけだ。
新しい「汚点」を感じる。
不思議なもので、私はそれを5歳程度ですでに感じていた。
「この人、特殊なこだわりあるし、それが強い」と。
母を客観的にそう捉えていた。
かわいくない子供である笑
今思えばの最大の悲劇、それは。
母は平凡で普通でみんなと同じであることが1番大切で素晴らしいと評価しており、私はその逆だったということ。
若い頃の私は、普通すなわち自己の放棄と見做していた。
かわいくない子供である笑
世の中のものってのは、ゼロヒャクなんかない。
みな、なんかしらよくて悪いもんだ。
そして未熟だ。
大したものなんかないんだ。
しかしみな、大したフリはする。
そしてそこに皆、いろんな意味で騙される。
いいんだ、全てはただ美しい。
いいんだ、全てはただ尊い。
いいんだ、全てはあるがままが完成であり完璧だ。
ダメに見えること自体が完成されている。
存在も、関係性も、そうだ。
世界や世の中において大切なのは、正しさや大切かどうかではない。
在ること、そのものだ。
評価などいらないのだ。
在ることそのものが、完璧であり、素晴らしく素敵だ。
「親子関係」ですら、そうなのだ。
あらねばならない形などなく。
理想とされる姿もない。
ただ、関係性があることそのものが正解なのだ。
そりゃ、個々人好みがある。
感情に任せていいだ悪いだ言いたいのだ、いつの時代も。
そしてみな、自分が正しいと認めてもらいたい。
しかし、本来。
いらぬ、いらぬ。
いらぬのだ、そんなもの。
親子関係の輝かしい修復から。
そんなことを思っていた。
久しぶりに話した母は、当たり前だが老いていた。
若い頃は美しくプライドの高い女性だったが、丸く穏やかになって。
人生は短い。
謳歌して生きねばならぬ。
