父が母(私からは祖母)のことを書いてあった文章がありました。
足のケガ(何回かメモに登場します。死ぬまで傷あとが残っていたようです。)と兵器学校での面会、そしてお別れの時のことが書いてありました。
このメモを見ていたら、私もおばあちゃんを思い出しました。
【私の印象に残っているおばあちゃん】
おばあちゃんの具合が悪くなった日、朝早くから父が車で病院に送って行きました。
そのとき見たおばあちゃんの顔は疲れ切っていたように見えます。
そして、目を見たときに、あ~もしかしたら最後の姿かも・・・そう思って大学に向かった記憶があります。
一人っ子で鍵っ子の私の面倒を見てくれました。
祖母が玄関前で魚を焼いていると、ノラネコが集まってきます。
コンチクショウ、あっちいけ といっていたおばあちゃんを思い出します。
犬のフンを踏んだ運動靴を洗ってくれたおばあちゃんを思い出します。
魚肉ソーセージと卵を絡めたおかずを作ってくれたのを思い出します。
子供にも孫にもやさしいかったおばあちゃん。
モンペ姿、丸い顔、思い出しちゃった。
<母の事・・・父が残していた文章>
膝小僧の傷あとを見るたび母の背のあたたかったことを思い出す。
小学校四、五年生の頃、校庭で低鉄棒で遊んでいたときグルリと一回転したとき痛いとかんじた。
膝小僧を見ると砂面にすったらしい血がにじんで砂がついていた。
このくらいのことはたびたびあるので気にしないで砂を払っておいた。
これがいけなかった。
四、五日すると傷口がふさがりなんとなく熱っぽくはれてズキンズキンと痛みを感じてきた。
そのうち足全体に腫れがひろがり我慢できない痛さになり母に見せた。
母は驚いて私を背負い雪どけの道が氷はじめた師走の夕方近所の薬局へとかけこんだ。
薬局の人の手当てがよかったのか次の朝には足のはれもなくなり歩けるようになっていた。
その時の傷あとである。
あれから七十余年。
その傷あともだんだん薄くなりいまにも消えそうになっているがあの日の母のあたたかさはそのままである。
背のあまり高くない母が小学校四、五年生の子供を背負い氷はじめた雪どけ道をかけるとは母だからこそと有難く感謝している。
昭和十五年三月尋常高等小学校を卒業すると自動車会社の養成所へ入所した。
うかつにも入所者全員が寮生活とは気付かなかった。
それでも初めのうちは毎日が目新しく親元を離れての生活に有頂天になっていた。
日が経つうちだんだん淋しくなり夏休みに帰宅したまま寮には戻らなかった。
どこでどうなったのか。
覚えているのは陸軍大佐の軍服姿がいかめしい所長殿に母のそばで論されていた。
又寮生活が始まった。
暑い夏の最中小さい弟の手をひいて自分のために余計な心配をかけてしまった。
母さんごめんなさい。
面会
入校して一年目の春の日曜日。
取締役生徒より面会の連絡を受けた。
面会所へ行くと既に幾人かの生徒がきていた。
そこに母と弟と母の仲よしの渡辺のおばさんが待っていた。
母は持参のお弁当をあけ全部食べていいんだよとニコニコして言った。
外出などしたことのない母が一時間に一本位しかでていない電車に乗ってくるとは随分心配していたんだなと思ひながら食べた。
面会の途中空襲警報のサイレンがなり別れを惜しむまもなく家族は全員校外にだされた。
内務班に戻ったときふとこの食糧難のなかでどうやって都合つけたのかな。
家族のことを考え少しは遠慮しておくべきではなかったとのかといろいろ考え込んでしまった。
母と最期に話をしたのは亡くなる数時間前のこと。
嫌いな病院で長時間待たされての診察。
病身の母には相当こたえた。
診察を終えて戻ってきたときは、つかれきってやつれた顔も土色のようになっていた。
ベッドに横になりほっとしたのか幾分顔もおだやかになってきた。
様子を見にベッドに近づいたとき、幸男と母が呼んだ。
顔を近づけると蒼白がったほおがかすかに赤みがさしていた。
お姉さんに縫ってもらったユカタを汚してしまった。
よくあやまっておいておくれ。
そおいうと、はずかしそうに顔を赤くそめその目はいたずらっぽく笑っていた。
こんな素適な母の笑顔を今までみたことがまかった。
まるで乙女のはじらいのそれの様に美しかった。
これが母との最後の一時だった
あの素適な笑顔と人への思いやりの心母が私に残してくれた。