3月6日 ~ 世界のマーチ王 スーザ 没 | Wunderbar ! なまいにち

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まだまだひよっこですがクラシック大好きです。知識は浅いがいいたか放題・・・!?

皆さま、今日もお元気でお過ごしでしょうか

 

「今日はなんの日」のコーナーです。

参考にしたのは、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それをお題に書いています。

 

今日、3月6日は・・・ ”世界のマーチ王” 「ジョン・フィリップ・スーザの命日」 です。

 

John Philip Sousa: 1854.11.6 - 1932.3.6; アメリカの作曲家、指揮者

(画像はwikipediaよりお借りしました)

 

今日は「マーチ王」と呼ばれるスーザの命日です。

私も彼の名前と「星条旗よ永遠なれ」など有名な曲は知っていますが、その程度です・・・あせる

 

彼は100曲を超えるマーチを作曲、他オペレッタや組曲も作曲しました。

マーチングバンドでよく使われる、マーチング用チューバの「スーザフォーン」を考案するなど、19世紀のバンド音楽発展に大いに貢献した人物です。

彼はアメリカ音楽の史上最高の伝説の偉大な人物のひとりとされています。

 

*以下参考にしたのは、wikipedia英語版wikipediaSocial studies for kidssousamusic.com などです。

 

 

ジョン・フィリップ・スーザは、1854年11月6日にアメリカのワシントンD.C.で10人兄弟の3番目の子供として生まれました。父親のアントニオ・スーザはポルトガル人でアメリカ海兵隊バンドのトロンボーン奏者でした。母親はバイエルン出身のドイツ人でした。

 

ワシントンD.C.にあるスーザの生家

(画像は英語版wikipediaよりお借りしました)

 

スーザは7歳か8歳頃(6歳と書いてあるものも)から音楽を学び始めました。通常の学校へ行くかたわら、家の近くにあった、John Esputa, Jr.が経営していた私設の音楽学校に入学しました。スーザはここで音楽の基礎、音楽理論や和声をEsputaから学んだのです。また彼はここで、ヴァイオリン、ピアノ、フルート、コルネット、トロンボーン、アルト・ホルン、声楽なども学び、この経験がのちに作曲や編曲に大いに役立ちました。 Esputaもスーザの完璧な音感と楽譜を初見で読める才能にすぐに気づいたそうです。

 

John Esputa, Jr.が書いた教則本

(画像はsousamusic.comよりお借りしました)

 

まだ子供で影響の受けやすかったスーザは、その後サーカスの楽団に入りたがりました。父親はそれをやめさせるためにスーザが13歳のときに見習い生としてアメリカ海兵隊(軍楽隊)に入れ、彼は21歳の誕生日を迎えるまでここで過ごしました。 彼はこの時期に地元の音楽教師だったGeorge Felix Benkertのもとで音楽理論や作曲法についても学んでいます。

1872年(18歳)に初の出版作品「ポトマック川の月光」(Moonlight on the Potomac Waltzes)を作曲しました。

 

1875年(21歳)に見習い生を終えて海兵隊を辞めると、彼は色々な劇場のオーケストラピットでヴァイオリンを弾き、ここで指揮も学びました(アーサー・サリヴァンのコミックオペラ「軍艦ピナフォア」もブロードウェイで指揮した)。 1876年(22歳)にはフィラデルフィアに落ち着き、作曲や編曲、校正など出版会社で働きました。 1879年(25歳)2月にジェイン・ベリス(Jane van Middlesworth Bellis) (1862-1944)と前述のサリヴァンのオペラのリハーサルで出会い、12月にふたりは結婚、のちに3人の子供に恵まれました。

 

スーザの妻ジェイン(画像はsousamusic.comよりお借りしました)

 

1880年(26歳)スーザは古巣のアメリカ海兵隊軍楽隊からの要請を受けてワシントンへ戻り、楽団のトップとして戻り、1892年(38歳)まで指揮者を務めました。 スーザは厳しい指導者で、団員たちに長時間の練習を要求しました。その結果海兵隊楽団は素晴らしいバンドとなったのです。 

 

彼はこの”大統領直属の”バンドを5人の大統領(ラザフォード・ヘイズからベンジャミン・ハリソンまで)のもとで務め上げ、彼のバンドは1881年のジェームズ・ガーフィールド大統領と1889年のベンジャミン・ハリソン大統領の就任式で演奏しました。

 


スーザ(中央)とアメリカ海兵隊バンド

(画像はSocial studies for kidsよりお借りしました)


スーザは1886年(32歳)に書いた行進曲「剣闘士」(The Gladiator)で有名となり、その2年後に発表した「忠誠」(Semper Fidelis)でその名声を不動のものとしました。この曲はアメリカ海軍の公式な行進曲として知られています。 

1889年(35歳)には新聞社の「ワシントン・ポスト」が行った子供の作文コンクールの表彰式のために、行進曲「ワシントン・ポスト」(⇒「今日の曲」)を作曲、大ヒットとなりました。

 

「ワシントン・ポスト」の楽譜の表紙

(画像はwikipediaよりお借りしました)


その頃発明された蓄音機を利用して海兵隊バンドは数多くの曲を録音し、同バンドはさらに大人気となりました。(ただし、スーザ自身は録音活動には”缶詰の音楽”と呼んで非常に否定的で、録音の時には指揮をしないほどの徹底ぶりだったようです)

 

大統領の許可を得て、スーザはバンドを率いて1891年と92年(37-38歳)に演奏ツアーを行い国内中を回り、大成功を収めました。

 

1892年(38歳)デヴィッド・ブレイクリーという興行師の説得で、スーザは海兵隊バンドを辞めて「スーザ吹奏楽団」(The Sousa Band)という民間のバンドを結成しました。
海兵隊バンドでの最後のコンサート(1892年7月30日にホワイトハウスでのコンサート)で、彼の名前が(?)刻印された指揮棒を贈られました。スーザの娘たちは1953年にその指揮棒を海兵隊バンドへ返還し、現在もバンドのリーダーはスーザに敬意を表してその指揮棒を使用しているのだそうです。 

 

 

スーザはスーザ・バンドを結成した1892年から亡くなる前年の1931年(77歳)までの39年間率いましたが、この間15,623回のコンサートを行いました。アメリカ国内だけでなく、世界中を演奏して回りました。パリで開催された世界博覧会やロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでも演奏しました。パリでは彼はバンドを率いて凱旋門への大通りを行進したこともあるそうです。

 

スーザ(中央)と彼が結成したスーザ・バンド(1893年)

(画像は英語版wikipediaよりお借りしました)

 

また、彼は1893年(39歳)にフィラデルフィアの楽器メーカーのジェームズ・ウェールズ・ペッパーにリクエストして、ヘリコンと呼ばれるチューバを改良してスーザフォーン (sousaphone)を造りました。これは立奏を前提として設計されたもので、マーチングバンドで今もよく目にすると思います。

 

スーザフォーン(画像はwikipediaよりお借りしました)

 

1895年(41歳)にはオペレッタ「エル・カピタン」を作曲、翌年ボストンで初演され、成功を収めました。(スーザはオペレッタも約10作品ほど作曲していますが、その中でこの作品が一番成功しました。しばらく忘れ去られていましたが、1992年にブロードウェイで久しぶりに上演されたそうです。)

 

1896年(42歳)にスーザの興行師だったデヴィッド・ブレイクリーが急死、彼の訃報を妻とのヨーロッパでの休暇中に聞いたスーザは、帰りの船の中で浮かんだメロディーを基に、「星条旗よ永遠なれ」(The Stars and Stripes Forever) を作曲しました。

 

スーザ:「星条旗よ永遠なれ」 (4分42秒:演奏は58秒くらいから)

/ United States Marine Band

 

指揮者が演奏前に作曲のいきさつを説明していますが、ブレイクリーの急死のことには触れていないようです。ホームシックやバンド・リーダー(恐らくPatrick Gilmoreのこと?)の死去のことなどがきっかけで作曲と説明しているようです。

 

1900年(46歳)、1901年(47歳)、1905年(51歳)にスーザ・バンドを率いてヨーロッパ・ツアーを行いました。

 

1900年(46歳)のスーザ

(画像は英語版wikipediaよりお借りしました)

 

1910年(56歳)から翌年にかけては世界ツアーを敢行し、アメリカ国内の他、イギリス、アイルランド、カナリア諸島、南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランド、フィジー諸島、ハワイ、カナダなどを回りました。

この時、スーザはマラリアに罹り、2週間入院した後にバンドに再び合流したそうです。

 

世界ツアー中のスーザ・バンド(1911年 南アフリカのヨハネスブルグにて)

(画像はSocial studies for kidsよりお借りしました)

 

 

1892年から率いていたスーザ・バンドでしたが、途中活動休止となった時期もあります。

第一次世界大戦が勃発し、アメリカがドイツへ宣戦布告してまもなくの1917年5月に、スーザは海軍予備役の中尉として任官されました。このためスーザ・バンドは解散。彼はこの時62歳で、本来なら引退の年齢でしたが、戦争の間彼はシカゴ近くの五大湖の海軍基地で海軍のバンドを率いました。

彼は月給として1ドルだけもらい、残りの給与はすべて船員や海兵隊のための救援基金に寄付していたそうです。

 

この頃のスーザ

(画像はSocial studies for kidsよりお借りしました)

 

1918年(64歳)11月に戦争が終わると退役しスーザ・バンドを再結成し再び活動を始めました。彼はその後も多くのコンサートや公の場で海軍の制服を着用し続けたそうです。彼は1920年代初めには海軍予備役の少佐に昇進しましたが、軍役に戻ることはありませんでした。

 

 

1922年(67歳)のスーザ

(画像は英語版wikipediaよりお借りしました)

 

彼はスーザ・バンドを再結成後は、レコーディングや演奏旅行、1922年(67歳)から始まったラジオへの出演など、大戦前以上に精力的に活動しました。また彼は作曲家の権利についても闘い、1927年(72歳)と翌1928年(74歳)に議会で証言も行っています。

 

 

1932年3月6日にペンシルベニア州のレディングのホテル(アブラハム・リンカーン・ホテル)で心不全のため亡くなりました。77歳でした。前日にリングゴールド・バンド (The Ringgold Band)の客演指揮者としてリハーサルで「星条旗よ永遠なれ」を振ったのが最後の指揮となりました。彼はワシントンD.C.の国会議事堂の共同墓地に埋葬されました。

彼の死去を受け、スーザ・バンドも解散となりました。

 

ワシントンD.C.のCongressional Cemeteryにあるスーザのお墓

スーザ夫人、3人の子供たちもここに眠っています

(画像は英語版wikipediaよりお借りしました)

 

 

彼が1912年から亡くなるまで住んだニューヨークのサンズ・ポイントの自宅(Wild Bank)は、1966年に国定歴史建造物に指定されていますが、私邸のため一般公開はされていません。

ちなみに、スーザの孫のひとり、ジョン・フィリップ・スーザ IV世は現在共和党の政治活動家だそうです。

 

1912年から亡くなるまでスーザが暮らした家 (Wild Bank) (ニューヨークのサンズ・ポイント)

(画像は英語版wikipediaよりお借りしました)


 

スーザは音楽以外にも多彩な才能があり、3篇の小説と自伝を著しています。また、クレー射撃(トラップ射撃)の名手として非常に有名で、海軍を代表して陸軍とも対戦していたそうです。彼は、現在のアマチュアトラップ射撃協会 (ATA)の前身である全国トラップ射撃組織も作りました。 またトラップ射撃について多くの記事も書いているそうです。

 

 

出典本の著者の近藤氏は、こう書いています。

「太平洋戦争後の10年ほどの間に小学生だった方々にある共通の思い出のひとつに、校庭で演奏するアメリカの軍楽隊の姿があるのではなかろうか。 ”世界のマーチ王”スーザのマーチは、アメリカの軍楽隊とともにやってきた。青空に鳴り響くスーザの軽快なマーチは、大柄な軍楽隊員が着ていた制服のまぶしい青と同じように、とてもカッコよかった。」

 

それでは今日の曲です。前述しましたが、スーザが1889年(35歳)に新聞社「ワシントン・ポスト」の作文コンクールの表彰式のために書いた「ワシントン・ポスト」です。 ”ツー・ステップ舞曲”と呼ばれるリズムの上に、軽やかで爽快な調べが流れます。

 

 

スーザ:「ワシントン・ポスト」   (2分40秒)

/ The United States Army Field Band

 

 

もう一曲。

スーザ:「雷神」(The Thnderer)   (2分59秒)

/ United States Marine Band   (2015年1月11日)