1月28日 ~ 名人 ルービンシュタイン 誕生 | Wunderbar ! なまいにち

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まだまだひよっこですがクラシック大好きです。知識は浅いがいいたか放題・・・!?

皆さま、今日もお元気でお過ごしでしたか?絵馬

 

「今日はなんの日」のコーナーです。

参考にしたのは、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それをお題に書いています。

 

今日、1月28日は・・・ ピアニストの巨匠 「アルトゥ―ル・ルービンシュタインの生誕日」ですバースデーケーキ クラッカー クラッカー

 

Arthur Rubinstein: 1887.1.28-1982.12.20; ポーランド出身のピアニスト

(画像はwikipediaよりお借りしました)

 

今日はルービンシュタインの誕生日ですバースデーケーキ クラッカー クラッカー 

私も彼のショパンのCDを何枚か持っていて大好きです。

彼は20世紀を代表するピアニストの一人で、演奏会としてのキャリアは80年にも及びました。

前半生はヨーロッパで、後半生はアメリカで活躍しました。

 

*以下参考にしたのは、wikipedia英語版wikipediain your pocket、「ショピニストへの道~ショパンを極めよう」の中のルービンシュタインの記事などです。

特に「ショピニストへの道~ショパンを極めよう」下差しのルービンシュタインの記事は大変参考にさせていただきました。管理人様にはリンク並びに内容の引用のご許可をご快諾いただき、誠にありがとうございました。この場を借りて御礼申し上げます。

 

 

 

 

アルトゥ―ル・ルービンシュタインは、1887年1月28日にポーランド(当時はロシア帝国の一部)のウッチでユダヤ人の家庭に7人(wikiには8人との記載)兄弟の末っ子として生まれました。父親は小さな繊維工場の工場主でした。ルービンシュタインは8年ぶりに懐妊した7人目の子供で、両親は上の兄弟たちの世話で手一杯で、いわゆる望まない妊娠だったようですが、伯母が両親を熱心に説得して生むことにしたそうです。ルービンシュタインがこの世に生まれることができてほんとによかったですね!

 

2歳の時に姉のピアノのレッスンを聴いて即座にその演奏を再現してみせ(姉が間違えたところまでそのまま弾いてみせたそう)、4歳のころには神童と呼ばれるようになりました。父親は彼にヴァイオリンを習わせようとしますが拒否したそうです。ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムは、4歳の彼のピアノを聴いて「この子はとても偉大な演奏家になるかもしれない。彼には確かな才能があります。本格的な勉強をする年ごろになったら私のところに連れてきなさい。喜んで彼の音楽教育をします。」と言ったそうです。

1894年にルービンシュタインは慈善演奏会でモーツァルト、シューベルト、メンデルスゾーンの作品を引いて7歳でデビューしました。

 

彼は10歳の時にヨアヒムの招きでベルリンへ移って音楽の勉強を続け、1899年(12歳)にポツダムで、1900年(13歳)にベルリンでデビューしました(いずれもヨアヒムの指揮で、曲はモーツァルトのピアノ協奏曲第23番)。

彼はヨアヒムが推薦したカール・ハインリヒ・バルトに師事しました(バルトはリストの弟子だったので、ルービンシュタインはベートーヴェンのひ孫弟子ってことですかね)。

1904年(17歳)にはパリへ行き、ラヴェルやデュカス、ジャック・ティボーらと出会いました。サン=サーンスの前では彼のピアノ協奏曲第2番を演奏もしました。さらにヴェルトハイム一家を通じてシマノフスキやヴァイオリニストのコハンスキとも親交を結びました。

1906年(19歳)にはニューヨークのカーネギーホールにデビューし、その後アメリカ国内、オーストリア、イタリア、ロシアで演奏旅行を行いましたが、アメリカでは聴衆、批評家ともに比較的冷淡な反応だったそうです。

1906年(19歳)のルービンシュタイン

(画像は英語版wikipediaよりお借りしました)

 

しかし、1908年(21歳)に借金取りの厳しい取り立てに加え、ベルリンのホテルの部屋の立ち退きも迫られて絶望したルービンシュタインは首吊り自殺を図りましたが失敗したそうですびっくり 彼はこの体験で「再び生を受けた」と感じたそうです。その時命を落とさなくて本当によかった!

1912年(25歳)にロンドンデビューを果たすとその後チェルシーに住みました。ここでストラヴィンスキー、ジャック・ティボー、パブロ・カザルス、ピエール・モントゥーらと親交を結びました。

 

1914年(27歳)プラハでのルービンシュタイン

(wikimedia commonsよりお借りしました)

 

第一次世界大戦中はロンドンに留まり、リサイタルやウジェーヌ・イザイの伴奏を務めました。

1916~17年(29-30歳)はスペインや南米で初めてのツアーを行い、同地の作曲家のグラナドス、ファリャ、ヴィラ・ロボスらの作品に触発され、彼らの作品を積極的に採り上げました(彼らから作品の献呈も受けています)。 1920年(33歳)にはイギリスを去って、翌年にはアメリカツアーを行いました。

1929年(42歳)にブラームスのピアノ協奏曲第2番を世界で初めて録音しました。

 

1932年(45歳)に指揮者のエミル・ムイナルスキの娘のアニエラ(当時21(24とも?)歳)と結婚。のちに5人の子供を授かりました(うち一人は夭逝)。この結婚はルービンシュタインに大きな転換期となりました。

 

それまでの彼は、その抜群の音感と暗譜力のおかげで少ない練習量でステージで弾けてしまうため、その才能に頼って厳格なメソッドは嫌っており練習量も少なかったようです。ショパンの「木枯らしのエチュード」は左手が旋律を担うので右手を適当に弾いてもそれらしく聴こえると考え実際に実践したこともあったそうです。 また、彼はとても社交的で交友関係も非常に広かったため、彼の家には数々の名士がしょっちゅう出入りしており、彼はその人々との交流する時間を大切にしていたことも練習量が少ない原因となっていたようです。その頃の彼は、真面目にピアノを練習するだけの人生はつまらない、と考えていました。 彼はのちにこう語っています。「私は若い時、私の時間はワイン、女性、歌で占められていると言われていたが、違う。私の頭は90%が女性で占められていたのだ。」 社交家の彼はモテモテでかなりのプレイボーイだったみたいです。

 

彼は音楽の情熱、躍動を重視するタイプのピアニストでしたが、その代わり音抜けやミスタッチはかなり多いという技術的な精度の粗さがありました。このため南米などではその華やかで情熱的な演奏は熱狂的に迎えられた反面、アメリカでは前述のように冷ややかな反応でした。

彼自身も自分の欠点には気づいており、17歳年下のホロヴィッツが世に出てきたときはそのテクニックに驚愕し、また41歳のときにショパンの「舟歌」の自身の録音を聴いたときは自分のあまりの技術的な粗さに危機感を抱きました。しかし、欠点を直そうと努力するモチベーションも上がらないまま現状に甘んじていました。

 

そんな時に現れたのが当時18歳のポーランド人のバレリーナのアニエラでした。最初に出会ってふたりは恋に落ちますが、アニエラは別のピアニストと結婚してしまいます。落胆したルービンシュタインはイタリアの王女などと浮名を流しますが、アニエラのことが忘れられませんでした。そのうちアニエラが離婚したということ耳にし、その3年後にルービンシュタインとアニエラは結婚しました。24歳差(21歳差とも)婚でした。

晴れて意中の人と結婚したルービンシュタインは、「妻や子供が、二流ピアニストを夫に持つ、父に持つといわれたくない」と俄然やる気になり、1934年(47歳)に妻と1歳の娘を連れてフランスの山奥の村に行き、村に1台というアップライトのピアノで1日9時間の猛練習に励みました。ミスタッチや音抜けを克服するために楽譜を入念に読み込み、パッセージごとに細かく区切って練習したそうです。やってみると意外と楽しかったようでモチベーションは益々高まりました。この修業期間は3か月間だったそうですが、この鍛錬のおかげで彼の演奏は見違えるように変わったそうです。アップ

 

結婚、そして1934年のこの猛練習が彼の大きな転換期となったとは私は全く知らず、とても興味深かったです。 元々天才的才能を持っている人でもそれを活かすよう努力して初めて花開くんですね~。

 

(ちなみに、ルービンシュタインとアニエラは離婚することはありませんでしたが、1977年、ルービンシュタイン90歳のときに、彼はアニエラを置いて当時33歳だったアナベル・ホワイトストーンという女性のもとへと走り、以後は彼女とともに過ごしています。)

 

ピアニストとして生まれ変わったルービンシュタインは、1937年(50歳)に前回冷淡な反応を受けたアメリカツアーに再度挑戦し、今度は聴衆、批評家からともに大絶賛され、熱狂的に迎えられました。気さくで陽気なルービンシュタインは、ファンのことも非常に大事にしたので大人気だったそうです。そして彼は超過密スケジュールでもコンサートを絶対にキャンセルしませんでした。たとえ大雪や嵐などの悪天候でも、指を怪我したときでもキャンセルしなかったそうです。

 

また、彼は不特定多数の”顔のない”聴衆に対して弾くことは表現意欲が湧かないと感じ、舞台に出て演奏前に客席をのぞき込みながら、若い女性とか年配の男性など特定の人の顔を目に焼き付けて、その人に語るような意識で感情を込め、情熱を注いで弾くようにしていたそうです。

彼は第二次世界大戦中はカリフォルニアで暮らし、1946年(59歳)にアメリカの市民権を取得しました。

またドイツで演奏することを嫌い、1914年を最後に演奏はしていないようです。

 

1963年(76歳)のルービンシュタイン

(英語版wikipediaよりお借りしました)

 

その後も積極的に活動しましたが、「飛蚊症」が原因による視力低下により、1976年(89歳)にニューヨークのカーネギーホールで(wikiにはロンドンのウィグモア・ホールと記載)のコンサートを最後に引退しました。この引退の公演の最後、ルービンシュタインが「 I love you.」と聴衆に呼びかけると、聴衆たちは「We love you !」と叫んだそうです。

 

ルービンシュタインは、1982年12月20日にスイスのジュネーヴで就寝中に息を引きとりました。95歳でした。亡骸は火葬されて彼の意志によりエルサレムに埋葬されました。

 

エルサレムにあるルービンシュタインのお墓

(英語版wikipediaからお借りしました)

 

彼は『自分の人生そのものが”音楽”です。(音楽を)生き、呼吸し、会話します。ほとんど無意識でそうしています。それが当然のこととは思っていないが、音楽は腕や足のように私の身体の一部なのです。』 と語っています。

また、超過密スケジュールでの演奏会を開くのが大変ではないのか?と尋ねられたときには、『演奏会を開くことは仕事ではありません。それは喜びですよ。ピアノに向かって座り、美しい音楽を弾く。これほど楽しいことが他にありますか?』 と答えたそうです。

8か国語を流暢に話し、驚愕の記憶力と聴力を持っていた天才のルービンシュタインですが、『私ほど幸せな人間はいないのではないか』 と聴衆など周囲の人たちを愛し、自分の人生も愛しました。

 

ルービンシュタインは、ハイフェッツやフォイアマン(のちにピアティゴルスキー)と組んだ「百万ドルトリオ」も有名ですが(しかしルービンシュタイン自身はこの名称をひどく嫌っていた)、ハイフェッツと色々な面で対立し、1950年以降は共演しませんでした。その後シェリングやフルニエと組んだブラームスやシューベルトのピアノ三重奏曲集でグラミー賞を受賞しています。

来日は1935年と1966年の2回のみでした。

 

ポーランドのウッチのPiotrkowska通りにあるルービンシュタインの彫像

(wikipediaよりお借りしました)

 

 

それでは今日の曲です。ショパンの「英雄ポロネーズ」です。

 

ショパン:ポロネーズ 第6番 変イ長調 Op.53 「英雄」   (7分)

/ アルトゥ―ル・ルービンシュタイン (Pf)    (1956年(69歳時))

 

 

彼が積極的に採り上げたスペインの作曲家ファリャの作品も。

ファリャ:「恋は魔術師」より 「火祭りの踊り」  (3分27秒)

/アルトゥ―ル・ルービンシュタイン (Pf)   (1940年)

 

これは映画「カーネギーホール」からの映像のようです。(ハイフェッツなども出演した映画です)

ルービンシュタインはこの曲をアンコールの最後の最後に弾いていたそうで、観客もこの曲が演奏されると「ああ、これで終わりなんだ」と思っていたそう。 両手を交互に高く振り上げなが勢いよく振り下ろしながら弾く姿は名物となりました。

 

 

カラーで映像がきれいなものも載せます。

サン=サーンス:ピアノ協奏曲第2番 ト長調 Op.22   (26分13秒:第2楽章;13分5秒~、第3楽章;19分31秒~)

/ アルトゥ―ル・ルービンシュタイン (Pf), アンドレ・プレヴィン&ロンドン響

 

これは1975年の映像でル・ルービンシュタインが88歳の頃です。翌年には引退しているので、この頃は視力がほとんど低下した状態ではないかと思われます。

そう思って見ると(そう思わないでも)すごい演奏、88歳とは思えない、素晴らしいの一言です!

プレヴィンも若い!

 

 

あと私が大好きな彼の演奏。

ショパン:「子守歌」 変ニ長調 Op.57   (4分45秒)

/ アルトゥ―ル・ルービンシュタイン (Pf)  (1962年)

 

本当に美しい音色です。 弱音でこんなに多彩なきらびやかな音色が出せるってすごい。

ずっと聴いていると人が歌ってるかのようにも思えてきます。

 

 

最後に彼の90歳のときのインタビューも載せます。

 

Rubinstein at 90 interview   (28分55秒)  (英語(字幕はスペイン語))

彼が社交的で人との会話が大好きだった、というのがよくわかる映像です。よくしゃべってます~にやり

 

 

とにかくルービンシュタインはお人柄もさることながら、ピアノの音色が本当にキラキラと輝くようでうっとりしてしまいます。

私もまたあらためて彼の演奏を色々聴いてみたいと思いました。

 

 

お茶目なルービンシュタイン、大好きですぶちゅー

(画像はinyourpocket.comよりお借りしました)