皆さま、今日もお元気でお過ごしでしたか?
「今日はなんの日」のコーナーです。
参考にしたのは、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それをお題に書いています。
(写真はwebからお借りしました)
今日、10月20日は・・・ 「1985年開催の第11回ショパン国際ピアノコンクールの最終日の日」 です。
ショパン国際ピアノコンクール(ワルシャワ・フィルハーモニーホール)
今日はだれの命日かと思ったらw、今日は1985年に行われた「第11回ショパン国際ピアノコンクール」の最終日だったんだって
「ショパン国際ピアノコンクール」は、1927年に第1回を開催、第2次世界大戦中に中断はありましたが、その後は5年おきにショパンの命日の10月17日(これについては3日前に記事にしました)の前後3週間ワルシャワで開催されるコンクールです。
そして、この第11回大会はコンクールの模様がNHKのドキュメンタリーで1985年12月16日に放送されました。(「NHK特集 ショパン・コンクール'85 ~若き挑戦者たちの20日間」)
第1次、2次、3次予選と結果が発表されるたびに若き挑戦者たちの喜怒哀楽を捉えた感動のドキュメントは、クラシック番組としては異例の高視聴率を記録したそうです。
「NHK特集 ショパン・コンクール'85 ~若き挑戦者たちの20日間」 (1985年)
なんとその番組がyou tubeにありました。私もあらためて観てみました。私も当時この番組観たはずなんだけど、内容は全然覚えてなかった
こないだ命日の記事を書いたw 園田高弘さんが審査員してました
あと調律師に、あのリヒテルの調律師の瀬川宏さんがいました(昨年12月に77歳で他界されたんですよね)。
この年は参加者124名のうち日本人参加者が26名と国別でも日本が断然多く、日本の存在がクローズアップされました(1次予選に10人も通過した)。また、コンクールの公式ピアノとして、それまでのスタインウェイとベーゼンドルファーに加え、ヤマハとカワイが正式に指定された記念すべき大会でもあったそうです。(ベーゼンドルファーは21世紀以降は公式ピアノから除外されている)
この第11回大会はコンクール史上最高レベルともいわれるくらいの激戦でした。
そして、もうお分かりの方も多いと思いますが、この時優勝したのが当時19歳のソ連出身のスタニスラフ・ブーニン (1966.9.25~)でした。
コンクールの表彰式の日のブーニン(左)だと思います(となりはルイサダかな)。タバコをくゆらせる口ひげ生やした19歳・・・
ブーニンの演奏は第1次予選から圧倒的で、ブーニン旋風が起こっていました。彼はダントツで優勝し、「稀にみる天才」と激賞されました。彼は「協奏曲賞」と「ポロネーズ賞」も同時に受賞しました。
「華麗なる円舞曲Op.34」の第3曲「猫のワルツ」の高速演奏は聴衆とテレビの前の視聴者の度肝を抜きました。
また、番組の中では、地元ポーランドの当時20歳のヤブウォンスキが古いアップライト・ピアノでしか練習できないことに同情した日本の関係者がグランド・ピアノを貸してあげたという話なども放送されたみたいです。(彼は3位に入賞)
結果は以下の通りでした。
第1位 スタニスラフ・ブーニン (ソ連)
第2位 マルク・ラフォレ (フランス)
第3位 クシシュトフ・ヤブウォンスキ (ポーランド)
第4位 小山実稚恵 (日本)
第5位 ジャン=マルク・ルイサダ (フランス)
第6位 タチアナ・ピカイゼン (ソ連)
第6位の方は知りませんが、上位5人がいまだに活躍しているのを考えるとこの大会がいかに激戦だったかを物語っているかもしれません。(過去の大会の入賞者ではその後消えているピアニストの方が多いですもんね)
日本ではこの番組の影響でブーニン人気が異様に盛り上がり、翌年7月に来日して日本武道館で行われたデビュー・リサイタルには1万2000人もの聴衆が詰めかけ、「ブーニン・シンドローム」という言葉まで生まれました。(ただその後バッシングを受けることもあったようです)
スタニスラフ・ブーニンの父はスタニスラフ・ネイガウス(ただし彼の幼少期に両親は離婚)、そして祖父はリヒテルやギレリスの師であるゲンリフ・ネイガウスというサラブレッドでした。
私は全然知らなかった彼のその後ですが、優勝して3年後の1988年に母親とともに西ドイツへ亡命、ヨーロッパ各地で活動しますが新録音の契約は難航を極めたらしく、89年に東芝EMIと契約します。
(優勝後、ソ連当局はプロパガンダに利用しようとしたりなど不自由で制約が多く、意思決定も自由にできない状況に見切りをつけて亡命したそうです。)
1990年代以降はメジャーレーベルからは離れてしまい、近年も新録音はないようです。
彼自身は、ブーニン・フィーバーをきっかけに日本を非常に好意的に思うようになったそうです。
そして!奥様はなんと日本人 で、自宅も世田谷区に! あるそうです。(ドイツにも家があるとか?)
1993年の北海道南西沖地震のときはピアノを持参して奥尻島を訪問、演奏会のあとピアノを地元の小学校に寄贈したそうです。1995年には阪神淡路大震災のチャリティーコンサートで演奏、2011年7月には東日本大震災で被災した子供たちの支援コンサートを開催、翌年にも1周年追悼コンサートに出演、2012年には北朝鮮の拉致被害者家族会を支援するためのチャリティー公演を開催するなど、日本で多くのチャリティー公演を行っているそうです。
私は全然知りませんでした。
当時、彼の演奏解釈は専門家の間ではどちらかというと異端的と評されましたが、彼の演奏がクラシック音楽ファンの裾野を広げるきっかけになったのは間違いありません。
そういえば、ピアニストの辻井伸行さんも、小さいころにブーニンが弾く英雄ポロネーズを耳にしたときだけうれしそうに手足をバタバタさせたけど、他のピアニストの同じ曲の演奏ではむずかっていたというエピソードがありましたよね
ちなみにブーニンの息子さんもピアニストですが、彼はジャズの道に進んだそうです。
ブーニンは本も書いています
スタニスラフ・ブーニン著、松野明子訳 「カーテンコールのあとで」(主婦と生活社)
幼少期に両親が離婚したあとの苦労、旧ソ連の監視社会、束縛、などの苦悩、亡命のことなどが詳細に書かれてあるようです。この本が発売されたのは1990年、今から30年前ですから24歳のブーニンが書いた本なんですね。日本に住んでからの続編をまた書いてほしいな~。
彼は2010年に徹子の部屋に出演したそうですが、その際「今とても幸せ。日本にいれるだけで幸せ。」と語っていたそうです。こういう背景があっての発言だったのかもしれません。
今のお顔の方がなんだか穏やか・・かな?
それでは今日の曲です。ブーニンが35年前のショパンコンクールの本選で弾いたショパンのピアノ協奏曲第1番より第3楽章・・だったのですが、楽章のみはなかったので全曲を載せます。
ショパン:ピアノ協奏曲第1番 ホ短調 Op.11 (39分10秒:第2楽章;19分40秒~、第3楽章;29分3秒~) / スタニスラフ・ブーニン(Pf)、タデウシュ・ストゥルガワ&ワルシャワ・フィル
(1985年ショパン国際ピアノコンクール)
映像はあまりよくないかもですが、音はクリアですこぶるいいです。
ブーニンを一躍有名にしたショパンのOp.34-2の「猫のワルツ」も載せます。
ショパン:「華麗なる円舞曲Op.34」より第3曲「猫のワルツ」
/ スタニスラフ・ブーニン (Pf) (1985年ショパン国際ピアノコンクール)
最後に、2010年に「徹子の部屋」に出演したときのもの。
ショパン:ワルツ Op.64-2 (4分32秒) / スタニスラフ・ブーニン (Pf) (2010年「徹子の部屋」)
ショパンコンクールから25年、44歳のときのブーニンですが、ピアノを弾く姿勢も前よりだいぶ前かがみになってるような、お顔もだいぶふっくらされてるような。
調律師たちの闘いも含めたショパンコンクールのドキュメンタリーは、前回2015年も放送されていました。
私も観ましたがとても面白かったです。
そして今年開催予定だった第18回のショパン・コンクールは来年に延期になりました。
来年こそ無事に開催されることを願っています。そして今度はどんなスターが現れるのか、とても楽しみにしています