8月22日 ~ ドビュッシーの誕生日 | Wunderbar ! なまいにち

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まだまだひよっこですがクラシック大好きです。知識は浅いがいいたか放題・・・!?

皆さま、今週もお元気で過ごせましたか?ヒマワリ  やっと一週間終わった~!チュー

 

「今日はなんの日」のコーナーです。

参考にしたのは、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それにプラスαで書いています。(写真はwikipediaなどwebからお借りしました)

 

今日、8月22日は・・・作曲家 「クロード・ドビュッシーの誕生日」 です。バースデーケーキクラッカークラッカー

 

Claude Achille Debussy: 1862.8.22-1918.3.25; フランスの作曲家

 

一昨年は、ドビュッシー没後100年ということで、コンサートでドビュッシーの曲を随分聴いた気がします。

ドビュッシーはそれまでの伝統から外れた独特の音階と和声を用いて印象主義音楽を書き(本人は印象主義音楽といわれることに否定的だったそうですが)、19世紀後半から20世紀初頭にかけて最も影響力を持った作曲家といわれています。

 

5月5日「こどもの日」にちなんで、ドビュッシーの愛娘エマのことを書きました。下差し

 

 

今日はドビュッシー本人のことですね。上の記事内にもドビュッシーの数々の女性遍歴について書いていますが、今回も出てきますよ~(おばちゃんはゴシップ好きなのよねぇ~てへぺろうさぎ

 

 

クロード・ドビュッシーは、1862年の今日、8月22日にパリ郊外のサン=ジェルマン=アン=レーで5人兄弟の長男として生まれました。(生家は現在ドビュッシー博物館となっています下差し

 

ドビュッシーの生家(現在はドビュッシー博物館)

 

 

内部の展示の様子

 

父親は陶器店を経営し、母親は裁縫師でしたが、2歳のときに店の経営難のために生家を離れ母方の実家に同居、ドビュッシーは小学校には行かず母親から基礎的な教養を学びました。

 

1867年4月15日、4歳のドビュッシー

 

8歳のときプロイセンとの間に普仏戦争が勃発し、パリは包囲攻撃されてフランスは敗北。1871年(9歳)に、父親がパリ・コミューンの革命運動に加わり投獄されました。この牢獄で、父は詩人ヴェルレーヌの義兄のオペレッタ作曲家のシャルル・ド・シヴリーと知り合います。シヴリーの母親はショパンの弟子のモーテ・ド・フルールヴィユ夫人でした。釈放後、父やシヴリーの口利きでフルールヴィユ夫人に無償でドビュッシーのピアノ教師になってもらいました。

ドビュッシーはみるみる才能を現し、1872年(10歳)でパリ音楽院に入学、12年間にわたって同音楽院で学びました。

 

パリ音楽院に入学後、7年間くらいはピアニストを目指していましたが、学内コンクールに毎年挑戦してもなかなか1位入賞がとれなかったため(一度だけ1875年にショパンのバラード1番で第1次席を獲得)、1879年にピアノ科をやめ、ピアノ伴奏法のクラスに入りました。

 

1880年(18歳)にフォン・メック夫人(←チャイコフスキーのパトロンで有名なメック夫人です)のお抱えピアニストとして子供たちにピアノを教えました。一家の長期旅行にも同行し、フィレンツェ、ベネツィア、ウィーン、モスクワなどを巡り、ロシアではチャイコフスキーやロシア5人組の作品に触れ影響を受けました。(一度メック夫人を通じて自分の作品をチャイコフスキーに送ったときは酷評されたそうですw)

ただ最終的にはドビュッシーがメック夫人の娘(13歳)に手を出したために解雇されています汗

 

1880年12月にはエルネスト・ギロー(←以前ビゼーの記事で出てきました)のクラスに入り、作曲を学びます。1882年からローマ賞挑戦、3度目の応募で1884年(22歳)にローマ大賞を受賞しました。ローマ大賞の受賞者にはローマへの3年間の留学が義務付けられており、ドビュッシーもローマに出発しますが、イタリアの雰囲気になじめなかったのか、はたまた当時不倫関係だったヴァニエ夫人が恋しくなったのか、2年間で留学を切り上げて帰国しました。

 

1884年のドビュッシーの肖像画(マルセル・バシェ画)

 

学生時代からワーグナーに傾倒していたドビュッシーは、1888年(26歳)に念願のバイロイト音楽祭へ行き、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」と「パルジファル」を聴きました。この年に「アラベスク第1番」を作曲。

 

1889年(27歳)は彼にとって転機の年となりました。国民音楽協会に入会してショーソンらと知り合い、また6月のパリ万博でインドネシアのガムラン、カンボジア音楽など東洋の音楽に触れ、大きな影響を受けました。音楽以外にも日本の浮世絵や、当時パリで盛んになった印象派の絵画にも刺激を受けました。

この年、2度目に訪れたバイロイト音楽祭ではワグネリズムの限界を感じ、これ以降アンチ・ワグネリアンとなります・・・

また、この頃に詩人マラルメの自宅サロンに唯一の音楽家として参加を許され、この時の体験がのちの「牧神の午後への前奏曲」などへの作曲につながります。

そしてヴァニエ夫人への愛は薄れ、この年からガブリエル・デュポンと同棲を始めました。

 

1890年(28歳)に、彼の最も有名なピアノ作品「月の光」をふくむ「ベルガマスク組曲」を作曲。

1894年(32歳)に「牧神の午後への前奏曲」を作曲。この曲でドビュッシーはフランス楽壇の英雄となり、この曲はフランス印象派音楽を代表する作品のひとつとなりました。ラヴェルは、

「私は最初に牧神を聴いたとき、初めて真の音楽とは何かを悟った。」 と語っています。

また、この年にテレーズ・ロジェと婚約しますが、同棲していたデュポンにばれて破談汗

 

1899年(37歳)管弦楽曲「夜想曲」を作曲。 この年に10年にわたってドビュッシーを支えてきたデュポンに別れを告げ、彼女の友人だったリリー・テクシエと結婚。ショックを受けたデュポンはピストルで自殺未遂を図りました。

 

1902年(40歳)に彼の唯一のオペラで9年をかけて完成させた「ペレアスとメリザンド」が初演、大成功を収め、彼は作曲家としてのキャリアを確実なものとしました。(ただ、原作者のメーテルリンクが自分の愛人(歌手)をメリザンド役にしろ、という要求をドビュッシーが拒否したため、メーテルリンクからの数々の妨害があったようで初演までは大変だったようです)

 

1903年(41歳)にピアノ曲集「版画」を作曲。

1904年(42歳)に今度は銀行家の人妻だったエンマ・バルダックに夢中になります。(エンマは作曲家フォーレの愛人でもありました。) エンマの長男にピアノを教えたのがきっかけで、ドビュッシーとエンマは愛し合うようになり、この年の秋に二人は駆け落ちしました(この時エンマはドビュッシーの子供を妊娠していました。)。 リリーはショックでパリのコンコルド広場で(デュポンと同じく)ピストル自殺を図りました。当時大きなスキャンダルとなりパリにいづらくなった二人はイギリス南岸へと逃れました。

 

1905年(43歳)に交響詩「海」が完成、ピアノ曲「映像」第1集を作曲。

この年にリリーと正式に離婚してエンマと再婚。エンマの出産のためにイギリスからパリへ戻り10月に一人娘のエマ(愛称シュシュ)が生まれました。ドビュッシーは歓喜し、娘を溺愛しました。(溺愛ぶりについては、前述の5月5日の記事をご覧くださいにやり

 

ドビュッシーと愛娘のエマ(シュシュ)

 

ただその後妻エンマの叔父が彼女の相続権を奪ったことから、一家は経済的に苦しくなり、ドビュッシーは生活費を稼ぐために、7年にわたって欧州各国へ10回ほど演奏旅行を行ったそうです。

 

1908年(46歳)に当時3歳の愛娘のためにピアノ小品集「子供の領分」を作曲しますが、翌年直腸癌を発症。

1910年(48歳)ピアノ曲集「前奏曲集」第1集(「亜麻色の髪の乙女」や「沈める寺」が有名)、1913年(51歳)に同曲集の第2集を作曲。 この年にはモスクワへ、翌1914年にはローマへ演奏旅行へ行きますが、同年7月に第一次世界大戦が勃発したため以降の演奏旅行はなくなりました。

 

1917年(55歳)に生涯最後の作品となる「ヴァイオリン・ソナタ」を作曲。5月にパリでドビュッシー自身のピアノ伴奏で初演され、これが公に姿を現した最後となりました。

 

1918年3月25日に第1次世界大戦下のパリで他界しました。55歳でした。同年11月に終戦。

1908年からポーの怪奇小説を基にしたオペラ「アッシャー家の崩壊」の制作に取り組んでいましたが、台本だけが完成し音楽は未完の絶筆となりました。

 

ドビュッシー他界の翌1919年には愛娘のシュシュがジフテリアに感染し、わずか14歳で亡くなりました。(ちなみに妻のエンマは1934年72歳で他界しています)

ドビュッシーの遺体は最初ペール・ラシェーズ墓地に安置あれていましたが、のちにパッシー墓地に埋葬されました。

 

改葬前の旧墓(ペール・ラシェーズ墓地)現存せず

 

 

パッシー墓地にある現在のドビュッシーのお墓

非常にシンプルですね

 

 

 

 

墓石の裏側には妻と愛娘も一緒に眠っていることが書いてあるようです

 

 

それでは今日の曲です。ドビュッシーが編曲した、サティの《ジムノペディ》第1番です。

 

サティ/ドビュッシー編:「ジムノペディ」第1番  (3分36秒)

/ デュトワ&モントリオール響   (1987年10月)

 

 

子供の頃に初めて「月の光」を聴いたときの、何とも言えない衝撃は今でも忘れられません。

なんと幻想的で魅惑的な音階なんだろうと思いました。

女たらしぶりはともかくとしても、やっぱり彼の音楽は今聴いても新鮮ですごいなと思います。

 

「音楽の本質は形式にあるのではなく、色とリズムを持った時間なのだ」

とか名言を言ったりなんかしちゃったわい音符 (by 九一分け(髪の毛)のドビュッシー)