皆さま、週末もお元気でお過ごしでしたか?
「今日はなんの日」のコーナーです。
出典は、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それにプラスαで書いています。
今日、6月28日は・・・大ヴァイオリニスト「ヨーゼフ・ヨアヒムの誕生日」 です。
(写真はすべてwikipediaなどwebからお借りしました)
Joseph Joachim: 1831.6.28-1907.8.15;
ハンガリー出身のヴァイオリニスト、作曲家、指揮者
写真見て、え?ブラームス?と思いましたが、そのブラームスととても仲の良かったヨアヒムです
ヨーゼフ・ヨアヒムの名前は数々の大作曲家の生涯にたびたび登場しますので、名前はしょっちゅう目にしていましたが、私にとっては今まで作曲家たちの脇役的存在でしかなく、これを機会に彼の生涯などについて知ることができて嬉しかったです
ヨアヒムは現在ではベートーヴェンやブラームスのヴァイオリン協奏曲などのカデンツァの作者として知られていますが、彼は19世紀後半のヨーロッパにおいて、最も偉大なヴァイオリニスト、指揮者、作曲家、教育者として大きな役割を果たしました。彼はブラームスをはじめとして、メンデルスゾーン、シューマン、リスト、ブルッフ、ドヴォルザークなど多くの作曲家と親交を深め、そこからたくさんの名曲が生まれました。
ヨアヒムは1831年の今日、6月28日にハンガリー西部のキットゼー(現オーストリア)で第7子として生まれました。彼曰く、
『商人だった父、母はもとより先祖に音楽家はいない。家での音楽といえば、ギターを伴奏に姉が歌っていたくらいだ。』
ヨーゼフ・ヨアヒムの生家
1833年に一家はブタペストへ移り、ヨアヒムは5歳からヴァイオリンを習い始めました。上達は目覚ましく、7歳のときに初めて聴衆の前で演奏、当時の雑誌に「第二のヴュータンかパガニーニか、はたまたオーレ・ブルか。」と絶賛されたそうです。
8歳(1939年)のときにウィーンへ行き、1841年(10歳)から2年間ヨゼフ・ベームに師事、ウィーン音楽院でも学びました。
子供のころのヨーゼフ・ヨアヒム
1843年(11歳)にライプツィヒへ行き、メンデルスゾーンに師事しました。
ライプツィヒ音楽院の入学試験のときの試験官は学院長のメンデルスゾーンだったそうですが、ヨアヒムの演奏を聴いたメンデルスゾーンは、入学の必要はないと言ったそうです。そのくらいヨアヒムの才能がすごかったということです。
『メンデルスゾーンは若き日の私の恩師だ。父親のような愛情を注いでくれた。・・・いつもどれくらい勉強が進んだか、師に報告に行ったものだ。』
1843年8月(12歳)にメンデルスゾーンやクララ・シューマンと共演してライプツィヒでデビュー。同年11月にはゲヴァントハウスでデビュー。メンデルスゾーンの家でのプライベートコンサートに何度も参加し、3年後(15歳)にはメンデルスゾーンと一緒プラハやウィーンなど各地へ演奏旅行へ行き、成功を収めました。この頃にベルリオーズやリストと出会うなど多くの音楽家たちの知己を得ました。
1844年5月(12歳)にはロンドンでメンデルスゾーンの指揮のもとベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を演奏しました。 ヨアヒムは半世紀以上にわたってしばしばイギリスにも訪れ(とても流暢な英語も話したそう)、イギリス音楽界にも深い影響を及ぼしました。
1847年11月にメンデルスゾーンが亡くなったときは、『この世が終わってしまったよう』だったそうです。
ヨアヒムはその後1850年(19歳)までライプツィヒにとどまり、ゲヴァントハウス管に在籍し、ライプツィヒ音楽院でもヴァイオリンを教えました。
1850年末(19歳)にリストに招かれてワイマールに移り、プロイセンの宮廷管弦楽団のコンサートマスターを務めるとともに、ワイマールで親しくなったヨアヒム・ラフやハンス・フォン・ビューローなどと弦楽四重奏団を結成し、室内楽奏者としても活発に活動しました。
ヨアヒムとリストは互いに尊敬し合い、リストは好んでヨアヒムの伴奏を務めたり、自作をヨアヒムに聴かせて意見を聞いたりしていましたが、メンデルスゾーンの評価をめぐる意見の相違などが原因となって、ヨアヒムは1853年にはワイマールを離れました。
1853年から15年間(22歳から37歳まで)はハノーファーで暮らしました。
この時期に演奏家してだけでなく、指揮者や作曲家、教育者としても活動の幅を広げていきました。シューマン夫妻やブラームスらと親しくなり、シューマンは交響曲第4番をヨアヒムに献呈しています。
ルドルフ・フォン・メンツェル画 クララ・シューマンとの演奏に臨むヨアヒム
(1854年 ヨアヒム23歳)
ヨアヒムが初めてブラームスに出会ったとき、ヨアヒム22歳、ブラームス19歳でした(1953年)。
ふたりは意気投合し、ブラームスは作曲するたびにヨアヒムに意見を聞くなどして作曲家として成長していきます。有名なヴァイオリン協奏曲もヨアヒムに献呈されたものです。
ふたりは1857年にリストやワーグナーらの新ドイツ楽派の方針に対して反対する宣言文も共同で執筆しました。
ブラームス(左)とヨアヒム(右) (1855年頃)
深い信頼関係を築いていた二人ですが、二人の仲はヨアヒムの妻が原因で一時期険悪になります。ヨアヒムは1863年(32歳)に当時有名なオペラ歌手(メゾ・ソプラノ)だったアマーリエ・ヴァイスと結婚し6人の子をもうけましたが、その後ヨアヒムはブラームスの楽譜出版社であるフリッツ・ジムロックと妻との仲を疑うようになり、1884年に離婚しました。ブラームスはアマーリエは無実と考え 彼女を擁護する長い手紙を書き、それが法廷に証拠として提出されたことからふたりの友情は壊れてしまいました。
冷えた関係は数年続きましたが、ブラームスの交響曲第4番にヨアヒムが理解を示したことなどから友情が復活、ブラームスが1887年に作曲した「ヴァイオリンとチェロの二重協奏曲」はヴァイオリンにヨアヒムを想定して書かれ、二人の仲を危惧していたクララ・シューマンは「和解の協奏曲」と呼びました。
ハノーファー時代には教育者としても名声が高まりましたが、この時代の最も有名な弟子にレオポルト・アウアーがいます。その後ユダヤ人のヤーコブ・グルンの役職をめぐるごたごたなどが原因となり、ハノーファーを去ることになりました。
1868年(37歳)にベルリンの高等音楽学校(現ベルリン芸術大学)の校長として招聘され、以後39年間(37歳から76歳まで)をベルリンで暮らしました。
1869年に同学校の初代校長となり、1907年に亡くなるまで同職を務めました。この時代に育てた弟子のひとりがイェネー・フバイです。
また1869年には「ヨアヒム弦楽四重奏団」を結成、メンバーの交代は何度かありましたが、その後40年近くヨーロッパ各地で演奏活動を行いました。ブラームスの作品の多くは彼らが初演したそうです。
ヨアヒム弦楽四重奏団 (1898年) (一番左がヨアヒム)
1882年に新しいオーケストラ、現在のベルリン・フィルが創設されましたが、ヨアヒムはこのオケも積極的に支援、財政的にも支援しました。
ヨアヒムは1907年5月まで演奏活動を続けていましたが、その後体調を崩し、同年8月15日にベルリンで他界しました。76歳でした。
ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム墓地にあるヨアヒムの墓(右)
左は元妻のアマーリエの墓石みたいです。離婚したのに並んで眠ってる・・・
ヨアヒムが教えたアウアーやフバイの弟子(いわゆるヨアヒムの孫弟子)がジンバリスト、ハイフェッツ、ミルシテイン、小野アンナ、ヨゼフ・シゲティなどで、さらにその弟子が諏訪根自子、江藤俊哉、海野義雄、前橋汀子などになどです。
それでは今日の曲です。ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第1番「雨の歌」より第1楽章です。
この曲もヨアヒムの助言を容れて書きあげられ、ヨアヒムによって初演されました。
私が大好きなヴァイオリニスト、イリヤ・カーラーの演奏でどうぞ~。
ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ 第1番 ト長調 Op.78 「雨の歌」より 第1楽章 (11分2秒)
/ イリヤ・カーラー (Vn), アレクサンダー・ペスカノフ (Pf)
ヨアヒムは長寿だったので、彼が実際に演奏した音源も何曲か残されているようです。
貴重な彼の演奏も2つほど載せておきます。
J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第1番 ト短調 BWV1001より第1楽章Adagio (3分31秒) / ヨーゼフ・ヨアヒム(Vn) (1903年録音)
ブラームス:ハンガリー舞曲 第1番 (3分25秒)
/ ヨーゼフ・ヨアヒム (Vn) (1903年録音)
いずれも1903年の録音で、ヨアヒムが72歳のころでしょうか。
晩年の録音だからかボウイングが衰えているようにも思えますが、それでもめちゃめちゃ貴重な録音だと思います。(最盛期のころは、彼のボウイングは速度がとても速く、マネするのは困難だったそうです。)
彼のおかげで生まれた作曲家たちの名曲は数知れず、さらに教育者としてもたくさんの名ヴァイオリニストを生み出したヨアヒムに、今さらながらではありますが感謝です!