皆さま、週末もお元気でお過ごしでしたか?
「今日はなんの日」のコーナーです。
出典は、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それにプラスαで書いています。
今日、6月14日は・・・イタリアのマエストロ 「カルロ・マリア・ジュリーニの命日」 です。
Carlo Maria Giulini : 1914.5.9 - 2005.6.14 ; イタリア出身の指揮者
私はカルロ・マリア・ジュリーニのお名前とお顔くらいは知っていて、CDも何枚か持っているとは思いますが、全部協奏曲関連でソリストの名前で買ったら指揮者がジュリーニだった、という程度のレベルです。
ただお顔がイケメンだ、ということはしっかりインプットされております
なにせこの端正なお顔立ちですからね、あごに手をやってもイケてるわけです
ジュリーニは北イタリアのボルツァーノで少年期を過ごしました。当時のボルツァーノはオーストリア領だったためドイツ語の中で育ちました。ローマのサンタ・チェチーリア音楽院でヴァイオリン、ヴィオラ、作曲を学び、ローマのアウグステオ管(現在のサンタ・チェチーリア音楽院管)でヴィオラ奏者として出発、フルトヴェングラー、ワルター、ストラヴィンスキー、R.シュトラウスらの指揮のもとで演奏し感銘を受け、サンタ・チェチーリア音楽院指揮科に再入学、卒業コンクールでは第1位を獲得しました。
1940年(26歳)に召集され、第2次世界大戦に参加しますが(クロアチアに送られた)、彼は兄弟で戦場に向かうときに弟と約束したそうです。
『戦争は怖い。でもどんなに相手が近くから銃を向けてきても、決して相手を殺すことだけはしないようにしよう。』
1943年の休戦協定の頃には少尉でしたが、休戦後はローマに行ってナチスと合流するか否かを選択せねばならず、ジュリーニはナチス軍には加わらなかったため9か月間指名手配(!)の身 となったそうです。
戦後、ローマ・イタリア放送響、ミラノ・イタリア放送響の首席指揮者を経て、1953年(39歳)にミラノ・スカラ座の音楽監督に就任しますが、1956年には辞任しました。その後アメリカ、イギリスにデビュー。
1963年にシカゴ響の音楽監督の就任を要請されたときも、
『3人の息子たちの教育のためと、長期間家族と離れて暮らすなど考えられない』
と言って断ったそうですが、1969年にはショルティに請われ、同楽団の首席指揮者を務めました(73年まで)。1973-76年にウィーン響の首席指揮者を、1978-84年にロサンゼルス・フィルの音楽監督を務めました(このときのアシスタントがチョン・ミョンフン)。
1984年に夫人の病のためロス・フィルの職を辞任、以降は演奏旅行の範囲をヨーロッパに限定し、客演を中心に活動しました。
ロス・フィルを辞任して母国に戻った時は、ヨーロッパの名門オーケストラからのオファーが殺到したそうですが、どんなに優遇された条件を提示されても少しでも長く夫人のそばにいるために固定したポストには就かなかったそうです。
1995年に夫人が逝去、1998年には引退を表明、後進の指導にあたりました。2005年の今日、6月14日に91歳で他界しました。
ジュリーニは3度来日しています。
初来日は1960年(46歳)にイスラエル・フィルを率いて、2度目は1975年(61歳)にウィーン響を率いて、最後は1982年(68歳)にロサンゼルス・フィルを率いて(このときはなんと福岡サンパレスでも公演があった!)でした。
ちなみにサイモン・ラトルは自分の指揮がうまくいかないと感じていたときに、親しく話をする機会と設けてくれ以来ジュリーニの大ファンで、思い余ってミラノまでとんできたラトルに、ジュリーニは、
『なんの心配もいらない。作品の方からあなたに指揮して欲しいとドアを叩きに来るときがあるものです。その時に取り上げればよいのですよ。』
と語ったそうです。この一言がまさに神の声にも似てラトルを大変勇気づけたそうです。
他、印象に残ったジュリーニの言葉をふたつほど。
『 私が指揮をするという行為をする時、いや作品を取り上げるということは、私が生きている、その生の一部分で、私の頭脳がそうしたわけでもなく、スコアに関する知識でもなく、人生の一部分にならなくてはいけないのです。 スコアとは作曲家が書いてくれたもので、指揮者は作曲家の召使にならなければなりません。作曲家は天才で、私は何者でもありません。 』
来日インタビューで、「あなたにとって音楽とは?」と聞かれて、
『 (しばらくじっと考えて)生命です。音楽は、いかなる人にも一人残らず想像力を通してこの生命を吸収することを許す芸術です。建築や絵画、彫刻や文学と比べても、音楽ほどそれを受け取る人間の想像力を自由に、そして豊かに生かす芸術はありません。 』
ジュリーニのお墓 (北イタリアのボルツァーノ)
マルチェラ夫人らとともに眠っています
それでは今日の曲、近藤氏が選んだのはミラノ・スカラ座管を指揮したベートーヴェンの交響曲第2番より第2楽章です。
・・・・が、第2番がなかった(見つけきれなかった)ので、同じくミラノ・スカラ座管を指揮したベートーヴェンの交響曲第7番を載せます。
ベートーヴェン:交響曲第7番 イ長調 Op.92 (40分42秒)
/ カルロ・マリア・ジュリーニ&ミラノ・スカラ座フィルハーモニー管弦楽団 (1991年)
ジュリーニは晩年にミラノ・スカラ座管とともにベートーヴェンの交響曲全集の録音に取り組みましたが、「第九」を録音しないまま逝去したため全集は完成とはなりませんでした。
そしてせっかくですので、彼の実際の指揮姿も。
こっちにベートーヴェンの交響曲第2番がありました(ただしオケはロス・フィル)
シューマン:「マンフレッド」序曲 Op.115, ベートーヴェン:交響曲第2番 ニ長調 Op.36
(57分25秒;3分すぎ~16分30秒;マンフレッド序曲、16分56秒~20分37秒;インタビューとリハーサル、20分54秒~(第2楽章;34分32秒~、第3楽章;46分42秒~、第4楽章;50分14秒~ ;ベートーヴェン交響曲第2番)
/ カルロ・マリア・ジュリーニ&ロサンゼルス・フィル
ちょっと長いんですが、リハーサル風景~インタビューが冒頭と中間に入っています。
曲のことを語るジュリーニはとても情熱的な印象を受けました。
この記事を書くにあたってジュリーニの生涯やインタビュー記事などを調べていくと、知れば知るほど彼のお人柄に惹かれました。自分の信念、目指すものに揺らぎがなく一本びしっと筋が通っていて、それを他人に押し付けるのではなく自分のやるべきことを黙々とこなしていく、そんなイメージを持ちました。
近藤氏は、ジュリーニの最大の魅力は、”イタリア人ならではの美しいカンタービレ”であったと書いていました。
カルロ・マリア・ジュリーニ (1914-2005)