遊郭のはなし③(明治期以降の東京) | 暴走列車が通過中

暴走列車が通過中

歴史人物をイラスト化したりしています。
弥生時代・神武天皇紀『海鳴』は完結いたしました。

言いたい放題の日記も随時更新中。

最近は「どうぶつの森」ネタ多め。

江戸期~幕末あたりの話は②でしているので、華やかな時代の吉原の話はそちらを確認してくれ。

 

 

吉原はとにかく火事が多くて、明治44年にも火災が起きて、これも全焼している。

このころになると、写真が残っていたりするので、調べると簡単に出てくるぞ。

 

で、花魁道中の写真が結構出てくると思うが、これは絵葉書。

「新吉原 稲本楼 小太夫」と下の方に書かれていれば、間違いなくそれ。(他にもあります)

これは明治44年の大火からの復活を宣伝するために、大正3年に行われた、花魁道中のイベント。

 

この吉原復興で江戸感のある建物は無くなったとも言われている。

で、昭和の初め辺りの写真だと、電柱とか立ってる。

 

明治期以降は政府官僚のお客も他に取られてしまい、土地の縮小などで寂れていく一方だったと伝えられているが、そもそもが大型遊郭なので、そうは言っても賑わってはいたようだ。

昭和33年の「売春防止法」施行まで、縮小を続けながらも営業は続いた。

 

 

ここから他の岡場所のはなし。

 

岡場所というのは、簡単に言えば「非公認」の遊郭。

なので、江戸では吉原以外は全部岡場所だ。

 

 

 

まずは深川。

富岡八幡宮門前の料理茶屋から始まり、八幡宮周辺だけでなく、仲町や新地、石場、佃町など7か所で岡場所が発生。

 

ここは吉原と違って、芸妓が上位で娼妓が次位。(吉原では娼妓が上位)

とはいえ、芸妓の中にも売春をするものも多く、二枚看板と称されていた。

 

ここの客層は、近くの木場の材木商が多かったようだ。

 

1842年の天保の改革で深川は潰される。

娼妓は吉原へ、芸妓は日本橋や柳橋へ逃れ、新たな花街を形成している。

 

で、しばらく後にまた料理茶屋が始まるw

ちょうどこの時、吉原で火災があり、吉原の仮宅として賑わいを見せ始める。

明治に入るとグッと寂れたようだが、深川不動堂の建立(1878)で盛り返しを見せ、米市場が開設(1886)されたことで、その関係者に利用されるようになる。

明治21年(1888)には洲崎に移転してきた根津遊郭と「深川洲崎遊郭」として開業。

 

その後は、昭和12年(1937)の日中戦争勃発で戦時色が強くなり、深川芸妓は洲崎娼妓と共に軍隊慰問などをしている。

昭和19年(1944)には花街の営業を停止される。

昭和20年(1945)の東京大空襲で深川一帯は焼失。

 

昭和25年(1950)料亭・待合41軒、芸妓130名、置屋50軒で再建。

戦後復興で木材業の需要が伸びていたため、賑わったらしいが、昭和33年の「売春防止法」で洲崎と共に廃絶。

 

とはいえ、一応「芸妓」なので、「娼妓」ではないですよーって感じで営業。(たくましいな…)

しかし、高度経済成長期になると、娯楽の多様化が生まれて、キャバレーやクラブに客を奪われていく。

トドメになったのは、得意先の木場が「新木場」に移転されたこと。(昭和45年)

 

その後、さらにバブル期の到来で地上げ。

敷地はビルや飲食店になっていった。

 

平成初期には消滅してしまうが、1990年の段階で門前仲町に料亭5軒、置屋20軒、芸妓20名がいたらしい。

 

 

 

続いて、深川と関係の深い洲崎。

ここの遊郭はもともと根津の遊郭です。

 

洲崎は埋め立て地。

埋め立て地だが、満潮時には冠水していたらしく、養魚場があった。

1791年に台風による高潮で周辺家屋が飲み込まれ、多数の死者を出してからは、ここらに家屋を立ててはいけないと幕府からお触れがあったらしい。

 

そんな洲崎に1888年、根津の遊郭が移転してくる。

吉原同様、火災もたびたび起こったが、大正時代末期には300軒の妓楼があったと言われるので、結構な大歓楽街になっていた模様。

 

昭和18年(1943)に閉鎖令が出され、軍需工場になるが、これも東京大空襲で壊滅。

 

その後は、ある程度の年齢層の方には有名(?)な「洲崎パラダイス」として復興。

この「パラダイス」のネオンの丸文字が時代を感じるw

 

日活の「洲崎パラダイス赤信号」っていう映画が昭和31年のものなので、当時の賑わいが分かる。ただし映像は白黒。

この映画に映っている蕎麦屋さんが、同じ場所で今もやってるらしいよ。

 

この「洲崎パラダイス」は吉原を超える歓楽街になっていたが、昭和33年「売春防止法」により、住宅街へと変わっていく。

 

 

一等クラスの店だった「大賀楼」の本館がずっと残っていたのですが、東日本大震災で半壊し、解体されている。

 

 

 

 

こちらも大きな岡場所、品川。

 

ここは東海道第一宿場町なので、そもそも大きい町だった。

「北の吉原、南の品川」と称されるほど栄えた。

が、1844年に摘発が入る。

 

明治5年(1872)に宿駅制の廃止、鉄道開通により、宿場町としての機能は失うものの、北品川では多くの遊郭が営業していた。

明治10年には貸座敷54軒。(妓楼は明治以降「貸座敷」と名称を変える)

 

関東大震災(1923)では、被害はあったものの火災を免れたため、お客が集中して大発展する。

(1922年までは年間33万人が来ていたようだが、24年には53万人に膨れあがっている)

娼妓数は18~28年までずっと4000人くらいなので、多忙を極めたと思われる。

 

品川も「売春防止法」まで営業を続けていて、それ以降は工場の従業員寮やアパート、商店街などに変化していった。

 

品川にあった高級妓楼「相模屋」跡地には石碑が残っています。(本体はない)

幕末の志士らが密議をしていた場所らしい。

 

…と、聞いて「いやいや、密議してた証拠なんか分からんでしょ!」って思ってたら、「英国公使館焼き討ち事件」起こした連中らしいよ。長州藩やんw納得wこりゃマジで密議してたな!ww

 

 

 

北品川駅の東に船だまりがありますが、かつてはここまでが東京湾でした。

この周辺には今も舟屋を思わすような古い木造家屋がありますが、中には戦前のもあるようですよ。

 

 

 

続いて、今もそれっぽい新宿。

 

新宿3丁目の東から、靖国通り、新宿通り、明治通りをぐるーっと囲んだ所が岡場所エリア。

 

ここは戦後にグッと栄えた。

GHQが1946年に「公娼制度の廃止」を求めていて、要は前借金で拘束する人身売買の禁止。

そのため、吉原なども含めて全体的に「飲食店」として営業を続行することになり、娼妓らは「女給」と言われるようになる。

んで、そういう店を東京では「カフェー」と呼んでいた。

 

新宿は「カフェー」だらけだった!

カフェー街は末広通りにたくさんあった。

(「末広亭」っていう店は大正時代からあるようです)←今の建物は戦後のもの

 

このカフェーの痕跡は、今も細い路地に入るとそこかしこで見る事ができます…(というか、営業してると思う)

 

新宿遊郭の北東に「成覚寺」という所があり、ここは遊女の合埋碑がある。

明治時代の過去帳がこの寺には残されていて、亡くなった遊女たちの年齢や戒名などが記載されている。

85%が19~24歳で亡くなっているそうだ。

 

遊女の病気っていうと、梅毒とか性病かなって思われがちだが、肺結核も多かったらしい。

あとは内臓疾患。(胃けいれん、胆石など)

病気すると売り物にならなくなるから、よほど高妓じゃないと医者にかかれない。

ほとんどは主人らに冷たく扱われて、医療も受けられずに亡くなっていく。

85%があの年齢層っていうのは、日常的な扱いがどれほどのものだったか想像を絶するな…

 

 

 

板橋

 

ここは陸軍の火薬製造所が作られてから、陸軍関係者が上得意となり、日清日露~明治末くらいまでが最盛期で栄える。

(貸座敷14軒、娼妓222人)

 

大正2年、娼妓の性病検査が義務付けられると、ポツポツと廃業していく妓楼が出てきて、日中戦争が始まる昭和12年に一斉廃業。

「新藤楼」という妓楼が最後まで残っていたが、昭和19年に閉鎖。

戦後は遊郭としての再出発はしておらず、古い建物は解体され、次々とマンションが建っていった。

 

板橋は中山道の第一宿場町だったのだが、明治期になって宿駅制が廃止されると一気に荒廃していく。

鉄道が宿場を外れて開通したのが痛かったらしい。

そのうえ、明治17年に火事が起き、300軒が焼失している。

 

遍照寺の横に「伊勢孫楼」という板橋で最大といわれている妓楼があった。

この寺、奥に馬50頭置けるスペースがあったらしいが、廃仏毀釈で廃寺になった。

(戦後、真言宗の成田山末寺として再興)

 

寺の先の角を右に曲がると、ごっついコンクリの塀が続き、そのうちレンガに変わる長~~~~い塀がある。

これが伊勢孫楼の塀のなごりらしい。全部敷地らしい。200人くらい泊まれたとか何とか。

ちなみに今は個人の所有物。

 

文殊院という所が板橋遊郭で亡くなった遊女らの墓がある場所になる。

 

 

 

 

千住

 

もともと奥州や日光に行く人たちの始点として賑わっていた宿場。

1823年に45軒くらいの妓楼があったようだ。

 

明治4年(1871)に千住梅毒院が開設。

娼妓に梅毒の検査が行われた。

 

明治16年(1883)には、娼妓374人、明治22年には466人に増える。

(訪れる人も1.5倍に増えている)

 

大正8年(1919)千住遊郭は柳新地(千住柳町)に移転。

柳新地は関東大震災の時も被害が少なかったので、吉原や洲崎から流れてきた客もいたらしい。

 

千住柳町にある、大門商店街っていう名称が、確実にここに遊郭があったことを示している。

 

遊郭時代に「千住貸座敷娼妓事務所」があった場所に、よくわからない古い門柱があるらしい。

建物だけ無く、崩れかけた古い柱だけ残っている。

事務所時代のものなのか、その後の何かのものなのか、今のとこ不明。

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

明治からは官庁街に近い、新橋や赤坂が政府高官の遊ぶ場所になっていたらしい。

 

 

 

と、いうか、GHQが日本の民主化改革のひとつとして求めた「公娼制度の廃止」だが、それまで娼妓は当たり前の存在で、

戦中は「国防婦人会」として軍隊慰問してるっていう所から、当時の感覚が今とかなり違うことが分かるな。

 

しかもその後も、無くなったわけじゃないからなー。

 

 

 

 

 

1946年から1956年(売春防止法)までの間、赤線青線っていう言葉があって、

もともとの遊郭地帯と私娼街を「特殊飲食店街」として、これを「赤線地帯」と言う。

そこにいる女給と任意の買売春は黙認された。

 

それに対して、裏口的な買売春をする私娼街を青線地帯と呼んだ。

 

「赤線・青線」っていうのは1950年以降に使われ始めたらしく、警察関係の言葉から始まってるとか~マスコミから始まってるとか~色々言われている。

黙認地域を「赤線」で囲ってた所から「赤線地帯」って言われているようで、青線っていう線は本来は無くて、赤に対して「青」と言うようになったっていう感じらしい。

 

カフェーは赤線ってことですな。

 

青線は「普通の飲食店(飲み屋)」としての許可だけを取っている店なので、1階はカウンター、2階が売春の場になっている。

 

これも当たり前の話だが、当然「青」は「赤」の地帯に隣接している(笑)

まぁ自分が青線だったらどこに店構えるかって考えれば、赤の隣に決まってるよね。

もしくは仲間内で赤線の死角に数軒入り込んで、どこが境目なのか分からなくしたりするよね。

 

青線があった所は、歌舞伎町・花園町(現、三光町)など都内に6ヵ所くらいあったそうな。

 

当時、「赤線は性病対策がされているが、青はちょっとヤバい。でも料金が安い」と言われていた。

 

 

 

しかし、売春防止法は赤線も廃止。

1958年3月までに一斉廃業となる。

 

この時、赤線に準じる地域は全国1800ヵ所、業者は3万9000軒、売春婦は12万人いたとか。

 

 

この類の店の今までのしぶとさや、たくましさを見ていると、だいたい予想はつくんだが…

廃業した店ももちろんあるが、おおよそはバーやスナック、ソープランドなどに転向。

旅館やラブホ、公衆浴場、アパート、下宿屋などになり、ひそかに営業する店も多かった。

 

この非合法営業は形を変えながらも、今に至るわけだな。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

こうして明治以降を見ていくと、華やかな雰囲気はどんどん無くなっていくわけですが…

いずれの遊郭も昭和33年まではしっかり営業していたようなので、70歳以上の方の中には当時をよく知る人がいるかもしれんですね。