深爪 1
百合
この名前は母か父、どちらがつけたものなのかあたしは知らない。
父の顔。
どんな人だったのか知る手がかりすらもない。
あたしの 記憶の世界には 父という存在が 皆無だ。
母は夜でて明け方 あたしの知らない街のにおいをさせて帰宅する毎日だった。
時々 知らない男が家にあがりこんで
あたしにチョコレートをくれるときがあった。
知らない男といるときの母の顔は
あたしと二人でいるときよりも 幸福そうで優しかった。
男の黒ずんだ手からもらったチョコレートは
あたしの心臓を ずしんとさせた。
貰うたびに あたしはチョコレートを 捨てていた。
あたしが中学にあがるころ
チョコレートをくれた男は 全く家にこなくなった。
母は
煙草と酒と ぎらぎらした世界のにおいをさせて懸命に生きようとしていた。
また別の男がきたけれど
そいつは チョコレートの代わりに
あたしと母の 共有する小さな世界に
母の 美しい 身体に
錆びた 鉛のような傷をつけた。
母は、ぎすぎすした細い指で、あたしの手を握ると
「百合ぃ、あたしみたいになっちゃ駄目だよ。」
そんなことを言うときがあった。
中学にあがって 他人の感情が全く読み取れず
あたしは誰とも 会話することを好まなかった。
そんなあたしに 同級生の 女たちは 声をかけようとはしなかったし
あたしもそれが 楽だった。
誰もいないアパートで
誰も求めず
母と幾人かの男がつくった
壁についた染みを見ながら ぼんやりと過ごす日々だった。
成長するにつれて
他の女よりも明らかに多くの男の視線を感じた。
中学の男や 年上の男に「好きだ」と言われ
名も知らない人から 告げられることもあった。
あたしは自分の美しさを はっきりと自覚していた。
白いなめらかな肌
艶のある 髪の毛
鼻筋
睫毛
赤い唇
全てが あたしの中で誇れるものだった。
街で見かける 醜いもの、ひとを見る度に 吐き気がしたし
そういったものが 存在していることにさえ 嫌悪感を抱いた。
