前記事の続きです。

子ども含め、人の名前を省略せずあだ名で呼ばずがいいのでしょうか?

正しいかは分かりませんが、私の結論としてはそれは周りや本人がどうなりたいかによると思います。

ちなみに私は相手が子どもだと、自分がこうなりたいとまだ決まってないと思っているので、園の方針に従いますが、ほぼ正式名称で呼んでいます。

この世の真理に対する私の考えは、以前の「円」から「球」にシフトはしています。(前記事のカタカムナの考え方も「球」です。)

「球」の考え方だと円以上に良い悪い、上下がないです。全てが必要です。

例えば、やんちゃな子がいて、教育現場の先生方を煩わせているとします。確かに、「大人しく勉強を学ぶ場」ではやんちゃさはマイナスになるかもしれません。でもエネルギーがいる場では物凄く必要な力だと思います。他の人が尻込みする場面でも果敢に行動できます。だから、ある性格がだめだと思ってもあだ名で呼ばず、本来の性格が発揮できるように正式名称で呼ぶ、但しその子が悪者にならないよう環境を整えてあげるのが現実的には厳しいかもしれませんが、いいのではと思ったりします。

全てが必要という考え方で、自分も相手も全ての物を尊重し、百%力を発揮・発揮させる、それでも上手く行かなくても、その人や物は次の世界に行くという考え方をするようになりました。

これまでの経験を振り返えると、一見、不幸せに見えることも、私にとって学びであったと分かります。自分がなりたい姿に近づけるよう手段を問わず色々な出来事を神様が起こしていると思えるようになりました。究極的には神も自分も物も自然も全て同じ物でできていますが。

話は本題からそれますが、因果応報もあり得る事だと分かってきました。ただ自分が人を殴ったら相手から殴り返されるというよりは、別の人から殴られる、殴られる=壊される事が起こる等そっくりそのまま返ってはきませんが。スピリチュアルな人は、今世でなく来世で返ってくることもあると言われている人もいます。

日本は相手のためなら自分を犠牲にするということが美徳でした。これからは自分も相手も楽な道を目指すのがいいと思っています。

最近は、夫婦が揃って各々の実家に帰省するのでなく、各々が自分の実家に帰るだけというのも見られるらしいです。会うと義父母も婿嫁さんもお互いに気を使うからとのことです。

人のある性格が長所でも短所でもあるように、どんな事もメリットデメリットがあります。

上の例だと、どんな距離のある人でも会って話すと分かり合える部分があったり、楽しい時間を過ごせるかもしれません。

私はどちらかというと効率優先の考え方で生きてきましたが、年を経るにつれ、代々伝わってきた事物や思想の素晴らしさ等の偉大さが分かってきました。

昔から伝わっている事の多くが、理由が分かっておらず必要ないと切り捨てがちの世の中ですが、何事もメリットデメリットを見極めた上(メリットデメリットという考え方は好きでなく、「こういう見方もできる。」という視点で見てます。)、大事な事は何か、見極めながら過ごしたいなと思っています。

だからといって私は変子だし、人それぞれなので、あまりマネをしないでください(笑)