心学「気にしない心」

 

心の器は一定の大きさではなく、時により大きくなったり、小さくなったりすることもある。器が大きい時には他人の愚言など気にならないが、小さい時には気になるものである。

 

もし、他人の愚言が気になった場合は、まだ心の器が小さいと思えば良い。

 

愚言は心に置き方一つで、気分を害する場合、それから何かを学び取ろうとする場合、大きく分かれる。気分を害する人間は器が小さく、他に入れる容量が少なく、質量は変わらないままである。

 

心の器が大きいと初めに入った気分を害する質量に他の思いを入れることによって、中和され、害と思う質量が減り、逆に学ぶ思いの質量が多くなり、心の栄養へと変わる。

 

例えば、墨汁の容器に他の真水を入れれば、墨汁の濃さが薄くなり、真水を入れ続ければ、墨汁も消えていく。

 

ただし、その真水を入れるだけ容器の大きさに問題がある。

 

一升の容器と五升の容器では五升にはたくさん水は入る。一升の内、気分を害する液体が五合なら、残りは五合になり、半々になる。しかし、五升になれば、十分の一とかなり薄くなる。心の器とはこのようになっている。