帰田賦  日本古典「万葉集」令月の出典  日中友好の元号

 

『歸田賦』(帰田賦、帰田の賦、きでんのふ)は、賦様式の一首である。中国漢王朝(紀元前202年–紀元220年)の官僚、発明家、数学者、天文学者であった張衡(78年–139年)によって書かれた。張衡の『歸田賦』は田園詩の中で後代に影響を与える作品である。

 

この詩は自然を前面に出し、人間や人間の思想に重きを置かない共通主題を共有する様々な形式の詩に対する数世紀にわたる熱狂の口火を切る助けとなった。

 

「帰田」は「官職を辞し、郷里の田園に帰って農事に従うこと[1]」を意味する。

 

背景

『歸田賦』は後漢順帝永和三年(紀元138年)に作られた。張衡は首都洛陽の腐敗した政治から退き、河北河間の行政官の任を務めた後、138年に喜んで引退を迎えた。

 

張衡の詩は、彼の儒家教育よりも道教思想に著しく重きを置きながら、引退して過ごすことを望んでいた生活を反映している。

 

節選

 

於是仲春令月,時和氣清;原隰鬱茂,百草滋榮。王雎鼓翼,倉庚哀鳴;交頸頡頏,關關嚶嚶。於焉逍遙,聊以娛情。

 

爾乃龍吟方澤,虎嘯山丘。仰飛纖繳,俯釣長流。觸矢而斃,貪餌吞鈎。落雲間之逸禽,懸淵沉之鯊鰡。

 

於時曜靈俄景,繼以望舒。極般游之至樂,雖日夕而忘劬。感老氏之遺誡,將回駕乎蓬廬。彈五弦之妙指,詠周、孔之圖書。揮翰墨以奮藻,陳三皇之軌模。苟縱心於物外,安知榮辱之所如。

 

【Wikipedia】より

 

元号(令和) 大伴旅人も漢籍を学んでいたのでしょう。その当時なら当たり前のことです。旅人は仲春を初春に変えていますが・・・

 

当時の知識人は漢籍を学び、それを国書に書き換えておりました。

 

今上天皇譲位による改元で2019年4月1日午前11時40分に内閣官房長官:菅義偉が記者会見を執り行って発表され、皇太子徳仁親王の践祚に伴って同年5月1日から施行される元号「令和」の典拠となった。

 

「巻五 梅花の歌三十二首并せて序」の「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。」から引用した。これまで日本の元号の出典は漢籍であったが、初めて日本の古典からの出典となった。

 

内閣総理大臣:安倍晋三は元号発表に伴って開いた記者会見にて、新元号について「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ。梅の花のように、日本人が明日への希望を咲かせる。」という思いを込めたものであることを語った。

 

「令和」の典拠となった「巻五 梅花の歌三十二首并せて序」は、天平2年(730年)の正月13日に、大宰帥の大伴旅人邸の梅園に山上憶良や下僚ら約30人が集まり催された「梅花の宴」の宴席で詠まれた32首(また後日6首が唱和された)の序文である。

 

現代訳では、「…時は良き新春正月、外気は快く風は和らいで、梅は佳人の鏡台の白粉のように白く咲き、蘭は香袋のように香っている。…」という意味である。花を愛で、桜や桃、菊などの花びらを杯に浮べ飲むことは、長寿祈願の習わしであったが、万葉当時の花見は、桃や梅などの中国伝来の花を見るのが一般的であったという。