人の中の記憶、記憶の中の人 | M3遣いのブログ

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ライカではなく、BMWのほうです(^^ゞ
日々想うことをまったりと・・・

昨年の2月、身近な人を亡くしました。特別親しかったわけではない。仕事上、つながりがあったに過ぎなかったのだけれど、あまりにも突然の悲報に呆然としてしまい、何も手につかなくなってしまった。


ところが、同じようにその知らせを聞いた周囲の人は、一時的にびっくりしてはいたものの、またすぐにもとの日常に戻っていった。自分は、その中でまるで自分一人だけ時間が止まってしまったように動くことができず混乱していた。


最近お気に入りの曲の歌詞を思い出す。wacci(ワッチ)の「東京」。


♪ねぇ どこかで出会ってもう忘れた人達へ
僕が消えたらどんな気持ちになりますか
驚いて頷いて数分後には元通り
悲しいけれど僕もおそらく同じです♪


亡くなったその人は、僕のことをなぜか、
「几帳面でいつもきちんとしている人」というイメージで見ていたらしく(実際は、全然そうじゃないのだけれど)、僕の髪の寝ぐせを見つけるたびに、「寝ぐせついてますよ、○○さんらしくないですよ。」と、毎回教えてくれていた。


その人のその言葉が、いつもずっと頭に残っていて、亡くなってからも朝起きて鏡で自分の頭の寝ぐせを見つけるたびにその人のことを思い出し、「僕は寝ぐせを見るたびにこの人のことを思い出すだろう。一生忘れることはないだろう。」と考えていた。


ところが、最近ずっと仕事が忙しくて、まともに晩ごはんも食べられない状況がしばらく続いていたのだけれど、朝はいつものように鏡を見るし、寝ぐせも毎日のように見つけて、ドライヤーとヘアブラシを手に頑固な寝ぐせと格闘していたのだけれど、その間、例のその人のことを思い出すことが、ただの一度もなかったのだ。


けさ、髪にブラシを入れながら、そのことに気づいてはっとした。「けっして忘れることはないだろう」って思っていたのに、まだ2年も経っていないのにもう忘れかけているじゃないか。そのことが、自分でとても、とても大きなショックだった。


大好きな村上春樹の小説『ノルウェイの森』にも、似たような場面がある。主人公が高校生の時に、親友を突然亡くす。亡くなったその日、親友とビリヤードをして、結果的に最後の言葉を交わすことになった彼は、「これからは、ビリヤードをする度に、死んだ彼のことを思い出すだろう。」と当然のように思う。


しかし、しばらく経ってたまたまビリヤードをすることになった彼は、途中まで死んだ親友のことを全く思い出すことがなかった。そのことに気づいて愕然とするノルウェイの森の主人公ワタナベ君は、そのまま今の僕だ。


「人は、忘れられたときに、はじめて死ぬのです。」
『狼の群れと暮らした男/ショーン・エリス著』より。


もし、僕が死んだとしたら、いったいどれだけ、誰かの記憶の中に生き続けることができるだろう。そう考えると、ちょっとブルーな気分になってしまうのでした。明日も仕事、がんばります。