今日は金曜日。週末の休みにまで仕事に出てきたくないと、朝からみんな必死で書類の山と格闘中。
そんな時、突然ボスから、「○○君、ちょっと」とお呼びが。何だろう、と訝しげにボスの前に出頭すると、「ちょっとあっちへ」と奥の小部屋を指差している。
奥の小部屋。以前から知っているし、自分もたまに使っていたけど、部署を異動したこの4月以降、私はこの部屋のことを「説教部屋」と心の中で呼んでいる。ボスが誰かをこの部屋に連れていくのは、決まって嫌なことを話すとき。
今日も、「何か失敗をしただろうか」と頭の中をフル回転させながら、重い足取りでボスについて行く。部屋で始まったのは、案の定、ボスの滔々と続くありがたいご講話。
ボスのお話は、一分の隙もない理想論。反論のしようがない。「おっしゃるとおりであります。ごもっともです。恐れ入りました。」と、ひたすら頭を下げているしかない。
むろん、それを求められているのは私一人ではなく、スタッフ全員なので、みんなボスの顔色を窺いながら恐る恐る仕事をしている。これではまずいんじゃないかと、みんなが思いつつ、おっしゃることはちゃんと筋が通っているので、誰も何も言えない。
大好きな小説、十二国記(小野不由美 著)のエピソードを思い出す。外伝「華胥の幽夢(かしょのゆめ)」収録の、「華胥」に出てくる、才国の王、砥尚(ししょう)。彼は、理想郷を夢見て、国民すべてに完璧を求め、それがうまくいかないと法を厳しくして対処しようとした。さらに、法に従わない民を容赦なく処刑して、自分が思い描く理想郷の実現にこだわり続けた。
人心は離れ、信頼の厚かった側近たちもついに王を見限ろうとしたとき、砥尚は突然、自害して国を譲ることになる。
・・・話は戻って、私は、「説教部屋」から解放された後、外回りの仕事に出かけた。用務の合間に、真夏のような陽射しの中をいつもより気持ちゆっくり歩きながら、ボスから言われた言葉を反芻し、自分はどうすればよいのかを考える。でも、簡単に答えは出ない。まさに、「言うは易し、行うは難し」
1時間ほどして職場に戻ると、ボスは休暇を取っていなくなっていた。戻ってきた私が、「外は暑かったです。疲れました。」と机の書類の山に戻ろうとすると、同僚たちが駆け寄ってくる。何事かと思った。自分が留守の間に、何か事件でも?と思ったら・・・
「さっき、あなたがボスに呼ばれて、みんな心配しています。もしかしたら、何も力にはなれないかもしれないけど、よかったら話してください。話すだけでも、少しは気が楽になりますよ。」
泣きそうになった。私を見つめるみんなの目が、真剣に心配してくれていることを物語っている。思わず、「大丈夫です」と言ってしまった。本当は、全部話して、楽になりたかった。でも、同僚たちの前で弱い所を見せたくないという、変なプライドが働いてしまう。私のダメな部分。
夕方帰る時にも、口々に、「週末は、ゆっくり休んでくださいね」「考え過ぎちゃダメですよ」とみんな心配顔。ありがとう、僕は、大丈夫。なぜなら、ちゃんとわかってくれる仲間が、そばにいてくれるから。
十二国記の砥尚が、自ら命を断って王の位を譲った時に、最後に遺した言葉。
「責難は、成事にあらず。」
(非難することは、何かを成し遂げることではない)
是。ボスのことを、「厳し過ぎる」「やりすぎだ」と非難することはたやすい。しかし、それだけでは、物事を進めることには何ひとつ繋がらない。今日もその葛藤と闘いながら、でも、帰りの足取りは、けっして重くはありませんでしたよ。ありがとう、みんな。