れいわ新選組はキリスト教の代わり、という話をしたいと思います。
国家神道を国家体制の枢要部分に置くアイデアは、ヨーロッパ諸国におけるキリスト教の代わりとして構想されたと言われています。
幕藩体制のように、農民や漁民を、権力によって押さえつけて、自由な活動を制限する統治機構であれば、一般人が利己主義に走る恐れはないわけです(利己主義に走ると罰せられる)。
しかし上からの抑圧を緩めて、人々の自由を認めるようになれば、利己主義に走る人も出てきます。利己主義に走る人が多く出れば、収集がつかなくなることも考えられます。
それで、天皇に対する信仰を広めて、国家の求心力を強め、利己主義に走る人を減らし、国家体制が無秩序になることを防ごうとした、ということなんでしょう。説明を真に受けるとするならば。(単に国学が好きで、国学の発想を国家体制の全体に浸透させたかった人もいたかもしれない)
そして、このことを踏まえた上で、れいわ新選組はキリスト教の代わり、ということを考えたいのですが。
ここで問題になることは、キリスト教の博愛精神です。そこには、どんな人でも、悪人でも善人でも、病人でも健康な人でも、誰でも救済されるべきだし、苦痛の中に取り残されるべきでない、という発想があります。
なぜなら、全ての人が神によって愛されており、見捨てられはしない、という根本原理が、認識され、広められているからです。
この根本原理を強く信じる人がいる間は、貧困者には救いの手が差し伸べられるでしょう。
現代の新自由主義的傾向は、新しいテクノロジーを開発し、生産活動の効率化を進めていきます。そしてもし人間が邪魔になるのであれば、無慈悲に排除しようとします。そこではテクノロジーの発展や作業効率の改善が目標で、それを押し留める人は罪を犯しているとみなされます。
この人をないがしろにする原理に対して、全ての人が大切にされるべきだという博愛主義の精神が対抗原理として存在します。
一方で、日本ではキリスト教が十分に理解されていないので、新自由主義傾向だけがどんどん進んでいき、それを押し留める力がほとんど働きません。
日本の一般的道徳は、家族や村のような共同体を大事にし、よそものを排除する内容を持っています。よそものは外敵であり、家族や村を侵略する危険性を持った勢力だと認識されています。それで内を守り、外と戦う方向性が出てきます。
この道徳的内容だと、見ず知らずの人が困っていても、その人を排除することで、身内を守ろうとする方向性となってきます。それは新自由主義と同じ方向性なのであり、対抗勢力とはなりえません。身内で困った人が出た場合は、助けることが多いでしょうが、必ずそうなるとは限りません。個人よりも共同体が大事なものだと認識されているので、個人を犠牲にすることで身内の全体が生きようとする可能性があるからです。
そして、れいわ新選組ですが、世間でどんなに取るに足らないと認識されている人でも、一人の大切な人とみなし、全ての人を生きられるようにし、人間らしく扱うことを目指しています。ここには、人と人は平等だという意識と、人の苦しみに共感する思いやりの精神が働いているでしょう。
全く別の原理の下で生きている人を、説得することは難しいかもしれません。博愛主義の精神を知らない人に、それが何であるかを教える道具立てを持っていないからです。しかし少しはわかる人が、れいわの運動を実践している個人を見て、理解を深めることはできるかもしれません。
そして、れいわの運動や、その他の貧困者支援のような運動がなければ、新自由主義的な方向性を止めることが難しくなるでしょう。なすすべもなく、破壊を見ているしかなくなる。
一方で、れいわの運動が、この破壊的傾向の歯止めになるなら、ある程度の人が生きられる環境が残されるかもしれません。
新自由主義的傾向は、生産者優遇の傾向を持っていますが、それに対して、貧困者や労働者の優遇を目指す勢力は、消費者優遇の傾向を持っています。
生産者も消費者も、経済にとってなくてはならないプレイヤーですから、両方ともが優遇されるべきです。片方を優遇しすぎて、片方をないがしろにしすぎれば、経済全体も、偏りが大きくなりすぎて、不調になります。心臓ばかり優遇して、肝臓をないがしろにする人体が健康ではいられないのと同様に。
新自由主義に対抗する勢力が、ガンガン当たっていくことでも均衡はできていきますが、新自由主義勢力が手加減してくれても、同じことが実現するでしょう。しかし現実問題、手加減なんてしてくれないので、対抗勢力を育ててぶつかっていくしかないわけです。
キリスト教の影響が強い国では、人間をないがしろにする部分が大きくなりすぎると、これはダメだ、何とかしなければ、と考える人が出てきて、均衡がはかられるのではないかと思います。この力が弱すぎる地域では、虐げられる人がとことん虐げられるだろうし、生産者ばかりが優遇されて消費者がないがしろにされるでしょう。
全体を見渡して、消費者をこれ以上冷遇したら、(個人が苦しむだけでなく)経済全体が病気になる、と考える賢者が出てきてくれてもいいわけですが、なかなかそういう人材がいなくて、荒々しい対抗勢力をぶつけて均衡を取るという形にならざるをえないのかもしれません。