都庁前の戦いで対峙した敵は、かなりの強敵だったんじゃないでしょうか。初戦は惨敗でした。

 

仕方がないので、引き継ぎ要素を使って、事典からお金でレベル80以上の仲魔を引き出して、力技で何とかしました。

 

引き継ぎ要素は多分、無印版のセーブ・データから最強の仲魔を3体、引き継いで事典に登録してくれているんだと思います。引き出すお金が結構高いので、序盤から使うことはできなくて、中盤くらいでやっと引き出せる仕様になっているようです。

 

僕は、無印版で、やり込み要素をあまりやっていなかったのか、有名で強そうな仲魔ではなくて、道なりに進むと自然に合体できるような普通程度の仲魔が出てきました。それでも助かりました。

 

 

今作では、都庁では、召喚の儀式が行われていました。神々の交代劇は、普通、不可逆に行われますが、ここでは、退けられ隅に追いやられた神々が復讐を誓い、それを(ある程度まで)やり遂げる話になっています。

 

都庁の土地や建物は、儀式の舞台として利用されただけですが、儀式が成就すると、都庁の建物は崩壊します。崩壊の仕方は、ワールド・トレード・センターの崩壊のイメージに近いものになっていました。

 

ビルが崩れ去るのですが、青空と白煙の組み合わせではなくて、ビルだけでなく世界も炎に包まれたような赤いイメージとなっていました。単に、頑丈だと思われていたもの(建物)の崩壊でなく、人間の罪が焼き払われる、煉獄的なイメージなんだと思います。

 

儀式においては、生贄が必要だという話になっていて、主人公の少年と人造魔人のアオガミの合成体が、生贄にさせられました。アオガミは、タオの呼びかけで意識を取り戻し、自身が犠牲になり、少年を助ける決意をしました。タオの呼びかけがなかったなら、光も時間もない場所で、少年との思い出に浸ったり、自分が至らなかった点を反省したりして、時間を過ごしてしまっていたかもしれません。アオガミは他者のために自らを捧げる意志は、それほど苦もなく持つことができます。しかし今、自分が何をすべきかが意識できないと、アイデアを持つこともできないし、決意を持つこともできないので、タオの呼びかけが重要でした。

 

タオの方でも、主人公の少年のように、直接生贄にはされませんでしたが、少年同様に、体を構成する物質が崩れていくような症状が出ていました。カディシュトゥが人を選び、何かしたものと考えられます。マガツヒという人間から抽出できる生命エネルギーのようなものがあり、カディシュトゥはそれを多くの人間から集めていたので、それをひとつに統合するための依り代が必要で、そのための準備として、生贄の体を緩める必要があったのかもしれません。

 

タオは言わば死にかけの状態にありました。カディシュトゥと契約していたヨーコは無事だったので、タオを介抱してくれていましたが、タオは気を失い、魂だけの状態になって、少年とアオガミに呼び掛けていたのだろうと思います。タオの体は滅びてしまったかもしれませんが、魂だけになっても、救える命は残さず救いたいというタオが元々持っていた願いに忠実に行動していた、ということなんでしょう。

 

一方で、ユヅルとツクヨミは、ダザイとアブディエルに襲撃され、ユヅルが命を落とします。

 

ユヅルとツクヨミは、主人公の少年とアオガミのように、合体して戦うつもりでいましたが、それは秩序の神が禁忌の技法とみなしているため、秩序の神の忠実な僕であるアブディエルやダザイにとっては、粛清の対象でした。

 

ダザイは、これまでの人生の経過から、迷いが多く、決断力や意志力において劣っていて、自信なさげな人間でした。しかしアブディエルとの交流や、戦いの日々を経て、覚醒を果たし、自分の判断の正しさに絶対的な自信を持つようになりました。

 

ダザイにとっては、逡巡は撲滅するべきもので、迷いなく判断し、決めたことを徹底して実行するという、強圧的な警察官や裁判官のような存在になってしまいました。

 

ユヅルも、理想を追い求めていましたが、自らの判断ミスや実力不足に直面して、悩みながら考え、少しずつ前進していました。自分の不甲斐なさに腹を立てて、やけを起こす可能性もあったので、安易な結論に飛びつかないで、悩んだまま耐え抜いたところは、立派だったと思います。彼がやり遂げたことは、ほとんど何もないと結論づけなければならないかもしれませんが、安易な選択に飛びつかず、確実と思われたことだけをやろうとした、という点で立派だったと思います。

 

ダザイの方は、十分に考え抜かないまま、自分の考えに自信を持ってしまい、自分のあり方に誰の口も挟ませない超越的な立場に立ってしまったので、もう間違いから学ぶということができそうにありません。今後、間違いから学ぶ機会がやってきたとしても、それはもう取り返しのつかないことを色々やらかしてからになりそうです。

 

ヨーコは、これまでの人生の経過から、この世界が正しいことが通らないことや、犠牲がつきものであることがおかしいと思うに至り、世界を一回壊して作り直す、カディシュトゥのアイデアに乗ったようです。ヨーコは破壊を望むほど、世界に絶望しているわけではないですが、世界は手直しでは済まないほど、根本的な作り替えを必要としているとは考えています。

 

しかしその後、少年やタオと一緒に行動する中で、この人たちの生き方や考え方を好ましく思うことができ、世界全体に怒りや絶望しか感じなかった以前の自分とは違う心理状態になります。そしてそのことを素直に認め、カディシュトゥに対しても毅然と主張していました。

 

ダザイだけが、途中で楽をする道を選んでしまいましたが、他の人は悩みながら、迷いながら進んでいます。

 

 

生贄については、ヨーコは生贄や犠牲に供される人間が出るような社会が根本的に間違っているという考えで、タオは強制される犠牲は自分も嫌だけど、自ら進んで自分を捧げる犠牲は良いものだという考えを持っていました。

 

僕もタオの意見に賛同したくなりました。他人が強制的に誰かのことを犠牲にするのは、本来的な犠牲のあり方じゃないような気がします。

 

それは単に利己主義であり、視野が狭いことによって、自分がしていることが何を意味しているかがわからないためにしている行為だと思います。

 

間接的な殺人は、殺人のように感じられないので、殺人を犯しても平気である場合があります。あるいは今となっては、直接手を下す殺人でも、罪の意識を感じない人が増えているのかもしれません。

 

本で昔の話を読んでいると、よく学び、よく働き、若くして亡くなっている人が出てきます。特別に若くして亡くなる人もいますが、そうでなくても、平均寿命が短いので、亡くなる年齢が若いですし、戦争があると、体の寿命まで生きられなくて、もっと若くして亡くなります。

 

その場合、短く濃い人生を生きて、公共的に働き、自分のためにはあまり時間を使わなかった人のイメージが浮かんできます。そこからは、自己犠牲の雰囲気を感じることができます。

 

勤勉だからそう感じるということもありますが、自分でしたいと思うことや、楽なこと楽しいことを「断念」して、自分の人生を誰かのために捧げているので、自己犠牲の雰囲気が出てくるのだと思います。