アラブの春やオキュパイ運動の活動家に、酒井さんが会った話が出てきました。

 

戦術的な思考力が優れていて、話し合っている内容は、すぐに実践に移せるようなもので、現場で実際に効果的に立ち回っていた人ならではの会話だ、という気が、読んでいて僕はしました。

 

素人でも現場に出て活動していると、実践的になる部分もあるのかもしれませんが、人によっては軍の出身者だったりするし、そうでなくても農家や鍛冶屋の出身者だったりすると、現場で使える実践的な知識を持っているわけです。

 

監視カメラをハッキングして、警察の配置を把握するみたいな芸当ができる人もいるようで、そこまでのことは、以前からコンピューターの知識を学んでおかないといけないかもしれません。少なくとも誰か一人はできないと、教えてくれる人がいないわけです。

 

酒井さんがこのような戦術的思考から、触発されて考えたことは、対局の戦略的思考は、運動を硬直化させ、停滞させるのかもしれない、ということでした。

 

普通は、戦略なき戦術は、どっちの方向に向かっているかわからないで戦うようなものだから、道を誤ると考えるでしょう。

 

思考がそんな経路をたどらないのは、酒井さんの現場での経験が作用しているからみたいです。

 

現場に出ると、不断の硬直した考え方から自由になって、何をどうすることもできるし、自由で創造的になれる気がし、解放的な感覚になれたみたいです。

 

戦略的に考えることは、実際には、党派的、組織的に考えることになり、それだと自由や創造性が抑圧される感じがするということだと思います。

 

酒井さんも、戦略的思考が全く必要ないとは言っていないですが、そればっかりになると、自分たち以外の人たちの自由な動きを嫌い、抑圧してくる、権力者と同じことをしてしまう、という感覚を持っているようです。つまり権力者と同様に、人間の自由を抑圧してくるということです。

 

僕が類推したのは、学校では勉強すること以外に、文化祭のような行事があって学生が自分で企画し、準備して、実施することです。そこでは自由や創造性を感じられるんじゃないでしょうか。それと、運動における戦術重視の考え方と、くっつけていいものかわかりませんが、とにかく、人間の自由や創造性が抑圧されると、一人一人が息苦しくなるだけでなくて、運動も停滞してきて、目的が果たせなくなる、ということがあるようです。

 

もうひとつ思いつくことは、一人で自由に思索にふける時には、誰からも邪魔されないし、自由だということです。ここには他者がいなくて、直接、誰かのために働くことはできないし、喜びや苦しみを共有することもできませんが、自由や創造性は確保できるかもしれません。

 

それだとダメなんでしょうか。

 

政治は、他の人たちとの話し合いの中で、よりよい知恵を導き出す営みなんだろうと思いますので、一人で考えていると、それは精神活動であって、政治活動ではないのかもしれません。

 

しかし一人で思索する時に、存分に自由であり、創造的であることができたら、政治活動の場で、あえて自由や創造性を求めなくてもいいかもしれません。既に自由になっており、創造的でありえているわけですから、「旅先」でも「自宅」と同様の環境を求めなくてもいいわけです。

 

それから、人間を抑圧する要素としては、党派的、組織的なもの以外に、民主主義の制度も、抑圧的なものとして挙げられていました。

 

多数の合意を得ないと、その考えは通らないという民主主義的原則があると、何々を実現したいという当初の思いは脇に置いて、さまざまな人の都合を聞いて、協力してもらうために、自分たちは何をすればいいのかを考えることになって、壮大な回り道をしている気分になるようですし、そもそも何をしたかったのか忘れてしまうことにもなる、ということのようです。

 

この問題に関しては、精神活動と政治活動を別とみなし、精神活動で存分に自由を実現するということが、やはり必要かもしれません。政治活動では、やはり他の人の意向を聞いて、他の人に合わせること(妥協や配慮)が必要になりますので、個人の自由や創造性だけで押していくことはできないんじゃないでしょうか。

 

最近、政党の代表選の話題がメディアを賑わせていますが、そこでは組織内の権力闘争が激しく行われているようです。それも戦術論ではあるんですが、立候補するための条件として、推薦人が20人必要という規約を利用して、推薦人はがしをやって、20人を割り込ませて、立候補ができなくさせる戦術があるみたいです。

 

これは常套化しているみたいですが、民主主義の原則に照らしておかしなことが行われています。政党の代表者は、基本的に誰がなってもよくて、家柄がいいとなれるとかそういうことではありません。選挙は、政党をよりよく導いてくれる人が誰かを選ぶ場でしょう、本来。

 

しかし実際には、自分たちの推す候補を勝たせるために、敵対勢力の推薦人を買収したり脅したりして推薦をやめさせるということをやっています。それがうまくいくと、誰も選挙に出られなくなって、自分たちの推す候補が無投票で勝つことになります。

 

これも戦略なき戦術ではありますが、全然人間を自由にはしてません。抑圧的な発想を持つ人がやると、戦略でも戦術でも、何でも人間を抑圧する結果になるということでしょうか。

 

組織しても、半分、組織から抜け出ているような自由な精神を持つように、アナーキスト的な人は気を付けていた、ということかもしれません。組織といっても、連絡先を交換し、ネットワーク的につながるだけで、連絡網とかも作らないし、定例会も開かない、ということでやっていた人もいたのかもしれません。

 

これは人間が硬直しないために、組織も硬直させない工夫ですが、組織はしっかりと作っても、人間が柔軟であり続けるように気を付けることは、可能性としてはできるかもしれません。

 

しかし、そのためにはやはり、自由を重んじる好みが必要で、自由でなくなるなら死んだ方がマシだくらいに思っていないと、他の事を優先させて、自由は早々に売り渡すことになるのかもしれません。

 

運動の現場で活動している活動家の人たちの感覚では、大衆の粗暴さ(米騒動を起こすような)は、文明化せずに維持した方が、運動の成果が出るということなのかもしれません。

 

商店からの略奪でも、商店が損害を受けて、続けて商売ができるかどうかわからないんじゃないかと思いますし、死傷者が出る怖れもあります。

 

でも、それよりも心配なのは、関東大震災の時の朝鮮人虐殺とか、障害者施設での優生学的発想による大量殺人とか、大衆の粗暴さを放置すると、そんなヘイト・クライムの方向に行く可能性です。

 

それはしかし政治権力が、その方向に誘導している面もあるので、焚きつけた人間が悪いということになるのかもしれません。

 

大衆を抵抗運動にいざなう時も、誰かが焚きつけているということかもしれませんが、こちらは強い者が弱い者を抑圧する方向性ではなくて、自由で創造的にやれるということなんでしょうか。

 

被害者が出る可能性がある以上、積極的に、暴動は必要だとか有効だとは言いにくいんじゃないかと思います。

 

しかし本当の問題は、暴動を焚きつけるとか、野放しにすることをやらない選択をした場合、誰かが怒りを持ったり、何かしようと意志を持ったりした時に、その感情や意志をやんわりと打ち消すようなアプローチをする人が大勢出てきて、その人がやる気をなくしてしまう、ということがありえる、ということかもしれません。

 

つまり、感情でも意志でも自由に表明していいと言うことの対極に、危ないから、心配だからといって、何もしない方がいいよと忠告する行為がある、ということで、前者の方に行かないなら、後者の方に行ってしまう可能性が高い、ということなんでしょう。

 

ここではしかし、中庸を目指すべきかもしれません。焚きつけもしない代わりに、抑圧もしない、という態度が、可能かもしれません。

 

まっすぐに中間を行けるわけではないので、時々は、行動しすぎたり、時々は安全策で行き過ぎたりする、ということかもしれません。

 

官僚的な事なかれ主義や、冷たい精神に絡めとられないようにするためには、やはり、自由に対する渇望を事前に持っておく必要があるかもしれません。