憂国連合の呼びかけ
この3つで横に繋がって頑張りましょう
(1)独立自尊
(2)衰退から成長へ
(3)命を守る
 

 

上掲の文章は、原口一博さんの呼びかけをフォロワーの方がまとめてXに投稿しており、それを僕が一部を書き写したものです。

 

呼びかけの対象は、議員なのか国民一般なのかはわかりません。

 

内容的には、僕も、ほぼ全部、賛同できそうな感じです。

 

左派的感性からは、いくつか不審に思う箇所があるかもしれません。

 

まずは憂国という言葉です。単にこの言葉は、三島由紀夫さんなんかが使っていたイメージがあり、右派のイメージが湧くので、大丈夫かと思う、ということかもしれません。

 

意味を考えても、左派的感性では、個人の自由が大事だし、個人の活動に対して国や社会は応援すべきだという考えになるので、国というまとまりを目的のように語るのは個人を国に奉仕させるニュアンスが感じられて心配になるかもしれません。

 

しかし左派でも、個人がバラバラでいいとは思っていなくて、人間集団を社会という言葉で捉え、助け合う関係を築くことが大事だと考えています。そして左派であっても、社会の行く末を心配している部分はあり、憂国を憂社会と言い換えれば、そんなに違和感はないんじゃないでしょうか。

 

一旦孤独になり、個人を確立した上で、また他の人たちとの共同生活に戻って来るというプロセスが、左派にはあって、まだ考えが社会形成にまで至っていない人が、利己主義的になっているんだと思います。

 

それから独立はいいんだけど、自尊が少し気になるかもしれません。自尊の反対は自虐で、自虐史観が嫌い、つまり歴史修正主義じゃないかと疑われるからです。

 

これについては、自分の好みである歴史をなかったことにしたり、なかったことを作り出したりしない、という、科学者もしくは認識者としての基本的なマナーを持っている人が言っているイことだったら、そんなに心配しなくていいかもしれません。

 

左派的感性からは、自尊という言葉をわざわざ出してくる動機がないと思いますが、別に自分が属する民族から素晴らしい業績を達成する人が出てきても、別に悪いとは思わないんじゃないでしょうか。つまり良いところは、捏造されたものではなく、本当にあるものだったら、喜んで受け入れられるということだと思います。

 

それでも達成は、民族がなしたことではなくて、個人がなしたことだと言いたい気持ちはあるかもしれません、左派には。

 

実際には、民族文化の積み重ねの恩恵を個人が受け取っているために、民族の達成だと言える部分もあるかもしれません。それでも、個人がどう考えどう行動するかが重要な時代にあっては、個人が受け身だったらどうにもならないという部分はあり、やはり業績には個人の寄与の度合いが大きいかもしれませんが。

 

そして、衰退から成長へ、の項目では、「脱成長論」の観点に立っている人からは、経済成長至上主義とか環境軽視の開発主義のニュアンスを感じ取るかもしれません。

 

これについては、GDPのような指標を、生産者側からだけ見ているために起こる対立のように思えます。GDPは、消費者側から見ると、全ての人が必要とする生活物資の総額というふうに見えます。

 

人口が少ないのにGDPが高くなる必要は別になくて、全ての人の需要に生産者側が応えることができれば、基本的にいいわけです。

 

しかし生産物の価値は、時間が経つごとに、コモディティー化していき、誰でも安価に作れるようになるので、収益が出にくくなります。それでできれば、新しい領域に挑戦して、新たな需要を満たす新たな生産物を創造するプロセスが常にあった方がいい、ということになるでしょう。

 

ただ、これについても、消費者側から見ると、目新しい商品を次々に買わされることに意味はなくて、潜在的な需要に応える商品が出て来てくれることの方がいいわけです。

 

国際関係を見ると、貿易収支が均衡せず、輸入超過になっていると、通貨が海外に流出したり、働く場所がなくなって海外に出稼ぎに行かなければならなくなります。

 

それで外国から買えないのなら、自国内で作るという内製化を行うか、外国から買えるように、外国の人から欲しがられるようなものの生産に取り組むか、どちらかになると思います。

 

以上述べた中で、常に生産の刷新に力を入れておかなければならない理由があることがわかりますが、消費者側から見ると、生産者の都合に振り回されるのは迷惑で、本当に必要な需要が満たされればそれでいいとも言えるわけです。

 

衰退から成長へ、というキーワードが、実際に指し示しているのは、縁故資本主義、中抜き業、マネーゲーム、軍需産業の戦争ごっこ、弱者からの収奪など、経済のバランスを崩すような行為が、当たり前の経済活動のように捉えられていることに対して、改めていく必要がある、ということだと思います。

 

変な病的考え、病的実践を取り除ければ、健康的な発展が見込めるんじゃないか、という見通しが語られている、ということでしょう。

 

実際には、病気を治療しただけでは済まないで、前向きなアイデアを出す局面、前向きな実践を行う局面でも、新たな創意工夫が必要になってくるかもしれません。

 

経済分野での病気の治療、ということが、実際には課題になっている、ということなら、既得権益をいつまでも維持したいと考えている人以外は、賛同してくれるんじゃないでしょうか。