ユーチューブでもテレビ局が、事件や事故を扱った短い動画を出しています。それを見ると、コメント欄にコメントが付いていて、内容を見たら、道徳の授業で先生が出した話題に対して生徒たちが口々に感想を述べている様子が思い浮かびました。
僕だったらそこに自分の感想を書いても何の意味があるかわからないので書かないと思いますが、率直な感想を書いている人がいます。
思いやりがあるコメントを見つけるといいなと思いますが、そこまで至っていないコメントも多いです。
学校の道徳の授業でも、みんなが模範的なことが言えるのだったら教育の必要なんてないわけだから、考えが足りない感想が多く出てきて当たり前なんでしょう。
そして学校の道徳の時間でも、社会人になってからの生活でも、自分自身で自分を向上させようと考えるのでなければ、進歩はありえないと思います。
僕の場合は、自分が持っている生来の特徴が不評だったり、現実の生活で不適応を起こす原因になっていたりしたので、いったいどういうことだろう、どうすればいいのだろう、ということを自分で考えるように強いられました。
自分でそれなりの答えを導けるまでにかなり時間がかかりましたが、一旦、踊り場のような場所に到達した後では、今度は他の人たちから君は理屈っぽくて嫌になると言われるようになりました。
それってどういうことだろうと思っていたんですが、おそらくは生来の特徴が好評だったり、自分の足を引っ張るどころか自分を助けてくれるものだったりした人もいたわけでしょう。そういう人はあれこれ自己検証する動機を持たないわけなので、流れのままに生きてきた人が、思考世界を広げてきた人と出会うと、相手の内面が人工的で意味なく複雑だと感じるのかもしれません。
そりゃ、人工物よりも自然物のほうが美的には優れているかもしれません。そして人工物も、理屈ではなくセンスで作られたものの方が美しいかもしれません。
しかし思考世界を開発しないというのも極端なあり方であって、公平に言うならば、自然な自己表現と、思考の深まりの両方を追求した方がいい、ということになるんじゃないでしょうか。
でも一方にしか取り組んでいない人は、自分がしていない対極的なものを、不要でいびつなものと感じるのかもしれません。
そして生まれた時から今まで、自然な自己表現でやってこれた人が、道徳的な問題についてコメントすると、僕が見たコメント欄の並びのように、人間に対して優しいことが言える人がほんのわずかしかいない、という結果になるのかもしれません。自分自身を見直して、不足しているところは改めるという精神活動をする機会を得ることがほとんどできなかったことが、その原因なのかもしれません。
そしてリベラル派のコメントが並んでいるコメント欄を見ても、根本的にはだいたい同じことが起きているように思います。
十分に考えられたコメントはあまり見かけず、自分が今立っている場所から見える風景が語られているだけのことが多いです。しかし少し違うのは、なるだけ正しく見よう、なるだけ良い考えに至ろうという、前向きな意志というものが表れているコメントを見かけることはあります。向上心があることはいいことでしょう。