コミュニティーを形成するにあたっては、やはり中核に力のある人物を配置しなければならないでしょう。

 

この人は、運動自体を発案し導いていく存在であることが多いですし、協力者を惹きつける魅力を持っていることが多いです。そして協力者の方は多様な人たちなので、指導者は自らの持っている人間の幅によって、ある人はここでつながり、別の人はここでつながる、というふうに、幅広い人たちをつなげる結節点になる必要があります。

 

指導者はカルマ的に蓄積があって、他の人たちよりも完成されていますが、追従者には未成熟な人もいます。それで人に至らないところがあっても包摂できる度量が必要になります。あるいは個人が自分自身の欠点を改善したり、少なくとも他の人に迷惑をかけないようにコントロールするよう、教育者的に働きかけることができなければならないかもしれません。

 

コミュニティーの目的によっては、事業を成立させなければならないので、個人には献身のみを求め、個人を包摂したり教育したりという課題をあまり重視するわけにはいかず、ネガティブな影響を及ぼす人を諦めて排除することも考えられます。申し訳ないけど一緒にやれないので、どこか他のところで居場所なり職場なりを見つけてくださいと言うしかないわけです。

 

一方で、人を包摂し、癒し、教育する目的を持ったコミュニティーでは、できるだけ幅広い人を受け入れようとするでしょう。それ自体が目的だからです。

 

それでも心が荒んでいたり、周りに迷惑をかける人は、実際問題受け入れられなくて、他へ行ってもらうことがあります。全ての人を受け入れる目標を掲げてやっているのは、ホームレス支援の団体のような、最後のセイフティー・ネットを形成しているところでしょう。

 

社会的に何らかのミッションを果たそうとしているコミュニティーでは、個人に何かを与えるのではなく、個人の力を引き出して社会的な建造物を建てようとします。

 

そこで大事なことは第一に、この目標は今の時代に大事なことだ、と人に感じさせるような目標を掲げることでしょう。そして目標を見て、すぐに馳せ参じることができる人は、元々自分でもそれをやろうと考えていた人が多いと思います。そういう人は限られた人なので、もう少し幅広い人を集めるためには、指導者自身の魅力や、このコミュニティーに入ったら楽しそうだなと思わせるような、コミュニティーの居心地よさのようなものが必要になると思います。

 

個人は自分の理解力のレベルによって、自分に見える部分を見て集まってきます。目標のレベルを見て集まって来れる人は少なく、楽しそうだということで集まってくる人の方が多いと思います。

 

楽しそうということでは、政治団体はかなり不利です。政治活動は地味で苦労が多く、アンチの攻撃や政府の抑圧などもありうるので、どう考えても楽しい活動ではないからです。

 

それでも政治活動は必要で、誰も政治活動に力を注がず、関心を持つこともなくなると、公共的な善を追求する気持ちが政治からなくなって、お金儲けの要求や野心を実現するための草刈り場のような場所になってしまいます。

 

政治活動が存在しないと、ひどい状況が訪れる。自分一人でやるより、力を持った人が作ってくれているコミュニティーに助力することの方が確実だし、成果が見込める。そう考えることができれば、個人に恩恵を与えるタイプのコミュニティーではなく、個人が全体のために奉仕するタイプのコミュニティーでも成り立つでしょう。

 

問題はそこまでの世界観を持っている人が少数に限られるということだと思います。

 

運動を大きくしていくためには、もっと低レベルのものを見ている人たちともつながっていく必要があります。

 

そういう意味で、指導者の魅力は必須だと思いますが、中間管理職的な人にも魅力が必要かもしれません。ボランティアの人たちが直接会う、中間管理職的な人が気持ちのいい人で魅力があると、ここに所属して、楽しい気分を感じたいと思う人が増えるかもしれません。

 

しかし反対に、低レベルの領域を見て、自分の方が何か得られる側面を見ている人が多いと、気に入らないことが起きた時に文句を言ったり、喧嘩になったりすると思います。

 

政治団体では、問題を起こす人が自分自身を改善するために、周りが何ができるか、というようなことは考えません。政治団体は教育機関でもないし宗教組織でもないからです。

 

それで喧嘩が深刻になると、当事者のどちらかを追放する結果になることが多いんじゃないでしょうか。

 

人間は皆、霊的に向上する課題を持っていると思いますが、その指導は政治団体ではやってくれないので、個人個人が自前で調達しなければならないと思います。逆にそうすることができれば、政治団体は政治団体の仕事に専念できます。

 

今の時代は、普段から霊的な課題に取り組んでいる人が少なく、霊的な課題なんてものがあることに気が付いていない人も多いので、それで政治団体の中のもめごとが激しくなり、また初歩的な段階のもめごとが多いということかもしれません。例えば、あの人嫌いとか、ひいきされている人がいるとか。

 

社会有機体三分節化運動の観点から言うと、精神活動が低調なので、そのしわ寄せが政治活動に来ている、ということになりますが、経済活動のしわ寄せも政治活動に来ています。経済人が利己主義的になってしまっており、政治活動への支援が利己主義の範囲においてしかなされなくなっているので、政治活動までが金儲けの手段のようになってしまっています。経済人はもっと叡智に溢れ、道徳的でもありえるということが、実例によって証明されなければならないだろうと思います。

 

 

政党の定義では、社会統治の特定の方向性を発案し、その実現を目標に掲げ、同じ考えの人たちの協力を募って活動する団体、というようなことになっていると思います。

 

これを真に受けると、ある考えを持つ人たちが、それと対立する別の考えを持った人たちと、激しくぶつかって、勝った方の意見が通るという、政治のイメージができてきます。

 

しかし実際には別のイメージも存在します。それは多数の人たちと意見が一致した範囲において、アイデアが実行されるというものです。

 

この場合、異なる感性異なる思想を持った多くの人と考えを揃えなければならないので、まずするべきことは自分の感性自分の思想を脇に置くということです。その上で、他の人たちの意見を見て、自分も乗れそうに思えるものを選んで賛意を示します。

 

このように合意形成を重視するなら、自分の意見を押し通すことは最初にやめなければなりません。そして他の人たちの意見に関心を持ち、深く知る態度を身に着ける必要があります。

 

それで合意形成を重視する場合に、許容される戦いは、完全に未成熟で、完全に悪意があり、完全に害悪を及ぼす危険性を持ったものだけを、警察が犯罪者を取り締まるのと同じ形で、指摘して排除することだけになると思います。

 

実際には、犯罪者が相手を犯罪者呼ばわりするようなことがあり、司法の場ではともかく、政治の場では、間違った意見の方が幅広い賛同を得ることがあります。

 

それで単なる、政治的な梃子として、反共意識があおられると、全く根拠がなくても、それで多くの人が動かされるということがあります。

 

このように間違った意見の方が通る、間違った状況がある時には、まずその基礎的環境を改善してから、社会統治の方向性を話し合った方がいい、というふうにも思えます。

 

しかしいつでも不正行為はつきまとい、尽きることがないというふうにも考えられます。それで基礎的環境の整備と、実際の統治の方向性の議論を、同時並行で進めて行かなければならないのかもしれません。

 

以上のような事情から議論は錯綜していて、いったい今議論されているのは、どのレベルのことなのか、にわか政治ウォッチャーの人にはわかりづらくなっています。

 

それで、今までの自分の経験や知見で政治を判断することではちょっと足りなくて、今の状況を整理することを先にやらないといけないかもしれません。

 

幸い、増税メガネとか、戦争ビジネスとか、今の状況を整理するために、適切な概念を考えてくれる人がいるので、真面目に勉強すれば、やっているうちに、すっきりした理解ができていくかもしれません。

 

 

あとは基本的に、あいさつをちゃんとするとか、礼儀正しくすることも大事みたいです。

 

形式的なマナーだったら、ないよりもあった方がいい程度ですが、本当に人間の霊に対する敬意の感覚があるなら、それは人と人をつなぎとめる力になると思います。

 

熱心な仏教徒だったら、道で人と出会った時に手を合わせることがあるみたいです(外国の事例)。それは単なるマナーではなくて、人間の霊への敬意を示しているということだと思います。

 

それとは別に、創造神や自然界を統べる存在への敬意を感じている人がいますが、こういう人が陥りがちな失敗として、人間個人が何かしてくれた時にも神に感謝を示すことがあります。

 

確かに神の働きもそこには含まれてはいると思いますし、人間個人の愛よりも神の愛の方が広くて深いものだとは思うんですが、人間個人の自由な愛が作用していることと、見過ごしにしてしまっていることが問題です。

 

自由な愛なんだから、実際に表現された形に結実するかどうか、事前にはわからなかったわけです。しかしそれが形成された。これは僥倖でありまた、その人自身の善意の表れであり、選択であり、コミュニティーへの愛着のなせる業だと思われます。

 

その部分を完全に見過ごしにすることは、かなり大きな失敗じゃないかと思います。

 

いずれにしても、このような基礎的な人間観を、個人が持っているかどうかが、運動や事業の推進にあたって効いてくると思われます。

 

これは個人の努力だけではなかなか準備できず、家族や周囲から受け継いだものであることが多いと思うので、その意味では、周囲の人間関係によって与えられるものという側面が強いです。

 

僕の場合は、この分野を後天的に勉強して理解していて、周囲から受け継いだものは少ないので、実践にあたっては、現場でなかなかうまくできないことが多く、後で振り返った時に初めてどうすべきだったかわかるということが多いです。

 

有能な人が実際に役立つ形で、善意を表現する時には、受け入れるのは簡単ですが、あまり経験がなくてせっかく善意があるのに、あまり役に立たない形で表現される善意というものもあるかもしれません。その場合も、とりあえず気持ちを汲むことが重要でしょう。その上で、断るべきものは断り、もっといい形での貢献の仕方が示唆できたら一番いいかもしれません。

 

人間や人間の運命の厳粛さが経験できるような、実体験や演劇体験があれば、普段の人間を見る目にも、厳粛な感覚が少しは反映してくるかもしれません。

 

しかしそのレベルで人生を表現する作品が今はあまり存在しないのかもしれません。

 

ただし、人が亡くなる直前の様子には、その種の厳粛さが表れているかもしれません。

 

 

自己犠牲は、人から強要されるのではなく、自ら進んで行う時には肯定できるし、崇高なものになりうる、ということかもしれません。

 

命を捧げることは、失ったら二度と戻らないために、厳粛さを感じさせますが、命を捨てること自体に意味があるわけではなく、命がけの行為が実際に誰かの役に立つ場合に意味を持ちます。

 

あるいは命がけの行為に、実用的な意味がなく、無駄死にだったり、苦痛に耐えかねての自殺に至っただけだったとしても、そこまで真剣に物質的、精神的な何かを創造しようとした人の思いが、他の人の心を熱くして、その人のこれからの活動を励ますということもあります。

 

命がけの行為、命を捨てること自体、それは物質的ですが、それが霊的なものの成就のために捧げられている時、より高いもののために、より低いものが犠牲に供されています。

 

より高いものの成就が本来追求されるべきだったとしても、より高いレベルでの活動が試みられ、功を奏するとは限りません。より低いレベルで何かが成就されることによって、より高いレベルで何かが成し遂げられることもあるでしょう。

 

それで犠牲にされているものに目を向けるだけでなく、その結果何が達成されたのかにも目を向けるべきです。

 

変死体に目を向けると、損壊されていて美しいとは言い難いことがあるでしょうけれども、その人が崇高なことを成し遂げていた場合、目に見えない世界で美しいものが成就しているわけです。