今の時代は、意識的な心魂の発展期にあたるので、完成された意識的心魂を持っている人は少なく、発展途上で未成熟な意識的心魂を持っている人が多いと考えられます。

 

そしてどのみち、子供は未成熟な状態で生まれてきて、それから体的、魂的に成長していくので、未成熟から成熟へと成長するプロセスをたどります。

 

意識的な心魂は、今の時代の文明の発展の中心であるヨーロッパで先に成長していっているので、ヨーロッパ人が他を引き離して、先に進歩した意識的心魂を持っていると考えられます。

 

しかし個々人は、個人の人生の軌跡と親和性が原因で、ヨーロッパ人に生まれたり、アジア人に生まれたり、アフリカ人に生まれたりするので、アジア人歴が長かったために、あまり意識的心魂を発展させていない、なんてことが起こりえると考えられます。

 

それでヨーロッパでも、民主主義的実践が困難を抱えるのだろうと思います。民主主義的実践を妨害する要素は、古い考えを持ち続けることだけでなくて、個人主義化が行き過ぎて、利己主義的になることや、他者への共感が廃れることも妨害の要素になります。利己主義や共感の欠如は、個人主義化や意識的心魂の発展の副作用のようなものなので、今の時代の病だと思います。

 

そしてアジアでは、アジア歴が長い魂たちが多かったり、地上の文化の中に前時代の要素が色濃く残っていたりするために、近代の文化である民主主義の実践にあたって、ヨーロッパよりも困難を多く抱えるのだと思います。

 

 

意識的心魂の特徴を考えると、世界から退いて孤独に思考を働かせる魂の営みであるために、プラス面としてあらゆることを包括的に取り込むことができ、マイナス面として世界と生き生きと関われなくて生命力を欠いた色あせた内容を持つことが多いと思われます。

 

今の時代は、全ての人が意識魂の発展に関わっていると考えられるので、先進的な人も、スロー・スターターも皆、意識的心魂を持っていると考えられます。

 

しかしぱっと見では、意識的心魂の存在が感じられない人もいるだろうと思います。

 

意識的心魂は、学者的に、神羅万象に思いを巡らすイメージがありますが、ぱっと見て、ぱっと反応し、自分が何を考え何を意図しているのか、自分自身で見ようとしない人がいて、そういう人は意識的心魂の中に生きていない感じがするからです。

 

世界の中に巻き込まれて、世界とともに生きている人からは、意識的心魂の雰囲気を感じません。世界から退いて、世界で起きていることを魂の中に取り込んで世界観を作り、世界観を日々深め、完成へと導こうとしている人は、意識的心魂の中で生きているように感じられます。

 

意識的心魂は、自己意識的なことが特徴だと思うのですが、自己意識的と似ているものに、知性的ということがあります。しかし知性的というのは悟性的と言っていることと同じで、英語で言えば、インテレクチャルということになります。

 

知性的な魂は、悟性的な魂と同じです。しかし分類によれば、悟性的な魂と、心情的な魂は同じです。悟性・心情魂と呼ばれます。

 

知性は、いろいろなことに思いを巡らし、その本質を明らかにしようとする活動で、心情は、見たもの体験したものを深く感じ取ることでしょう。

 

外界を見渡し、受け取った印象を魂の中で展開すること(心情)と、外界の事象に思いを巡らし、その本質を明らかにしようとすることは、やや違う内容に感じられます。

 

しかし古代ギリシャの前期においては、悟性・心情魂が発展しつつありましたが、その頃の知性は、人間の内面でひねりだされるものではなくて、外界を見て知覚されるものだったそうです。それでぱっと見て感じ取る心情の働きに近かったと考えられます。

 

感覚魂は、悟性・心情魂よりも、深みに欠け、表面的な営みだと言えるかもしれません。イメージ豊かではありますが、ぱっと見てぱっと感じる内容を表現したものなんだろうと思います。

 

悟性・心情魂は感覚魂に比べると、深みを持ち、多くの内容を含み込むことができますが、意識的な魂に比べると、入れられるものがそう多くないのかもしれません。

 

民主主義的実践においては、他の人が何を考えているかを知って、妥協できること、同意できることは何かを追求していく必要があります。

 

ここで邪魔になるのは、ぱっと見てぱっと感じ、ぱっと発言する魂の働きです。

 

自分が感じていることが、世の中に通用してほしい、跳ね返されると不快に感じ怒り出す、こういう魂の働きは、民主主義的実践の中では足を引っ張ることになるでしょう。

 

ぱっと見て、心情の中で深い体験をする、知性の働きでそれが何を意味するのかを深く捉える。そこまではいいとして、それを他の人と共通する認識へと発展させていかないことには、合意形成ができず、多数派の意見=世論にまとめあげることができません。

 

ぱっと見て、ぱっと感じただけでは、世界認識としては最初の一歩であり、まだ完成からは遠いということだと思います。しかし意識的心魂の発展の道に、意識的に踏み出していない人は、ぱっと見てぱっと感じたことが真理のように感じられ、それを他の人が理解しないのはおかしいと感じます。

 

これが世の中で対立が起きる原因のひとつであるだろうし、共通の感じ方の人たちが集まってグループを作り、その中では分かり合うものの、その外の世界とは不和である、というようなことの原因だと考えられます。

 

 

昔、桜井邦朋さんの「大学教授」という本を読んだんですが、そこでは日本人の研究者とアメリカ人もしくはヨーロッパ人の研究者の文化的な違いが説明されていました。

 

日本人の研究者は、仕事をする段においては、ヨーロッパ人の研究者と同じ考え方をしているが、仕事場を一歩離れると、日本人らしい考え方に戻り、少しも科学的でなくなる、ということでした。

 

研究テーマについて考えている時には科学者だが、そこから離れて、学生の指導を行ったり、学校の運営について話したり、日常の会話をする時には、もう科学者ではなく、感情に流されて筋が通った考え方をしない、一人の日本人に戻っているということでした。

 

ヨーロッパ人の例を見ると、仕事を離れて日常に戻っても、そこで科学的な考えをし、時には社会運動に参加して、自分の信念が世の中に生かされるように熱心に活動するということが出ていました。

 

世の中はこういう仕組みだ、そして現状はこうなっている、従って自分は良心に従って、社会の改良に取り組むべきである、と言うような考え方が、仕事場を離れても生きています。

 

しかし日本人の場合は、職場を離れるとすぐに、課題となっていることを心の中で掴む時に、そこからどういう感じを受けるのか測って、これは剣呑だ、あまり押し出すと周囲との調和を乱すから、あまり言わないようにしよう、なんて考えるのだと思います。

 

この違いは何を表しているかというと、おそらくは、ヨーロッパ近代思想のような精神を、魂の中にどのくらい受け止めるかの違いなんだろうと思います。

 

心酔して良いものだと感じ、全面的に受け入れ、その精神の中で生きる人と、便利だから実用的なものに限って受け入れ、それ以外の場では元々自分たちが持っていた精神の中で生きるという人の違いだと思います。

 

一方で、日本人的な特徴というものは、民族との結びつきが維持されている中では、そう簡単になくならないので、近代ヨーロッパ精神を全面的に受け入れた人でも、おそらく日本人らしさは去りません。なので良いと思ったことには、勇気を持って全面的に関与しても、特に問題はないだろうと思います。

 

外来文化よりも日本文化を大事に考えて、古い時代に生きていて今は失われつつある精神を再興しようとする人もいますが、そういう人の試みも重要かもしれません。しかし多くの人は、新しいものの摂取にも積極的に関与しないし、古いものの良さを再発見する活動にも熱心ではなく、いろいろな成果をつまみ食いしたり、新しく学ぶことを怠って手持ちのもので死ぬまでやっていこうとします。

 

精神の発展にとっては、向学心や発菩提心のように、道に入り、道を先へと進んでいこうとする動機が重要です。

 

初速が得られたら後は自分のペースで進んでいけばいいので、今はまだ未成熟なことが多くても将来に希望が持てます。

 

今、何かを願うことや、真面目に向き合おうとすることがなく、惰性で生きて行くアイデアしかない時は、スタート地点に立っていないので、時間が過ぎても進展というものが見られません。

 

意識的心魂の発展過程に入ってこない人、あるいは意識的心魂働きを便利に利用できる道具としてしか考えていない人、そういう人は、自らの進歩もおしとどめているし、他の人の足を引っ張ることにもなるのではないか、という気がします。