山本太郎さんの街宣とおしゃべり会のワンセットは、北海道から始まって、今東北を南下していっているようです。

 

秋田の室内の会場では、政権奪取の構想を質問している方がいました。この方は、小沢さんや志位さんや市民連合が主導してきた野党共闘路線の路線に期待を持っているみたいで、れいわ新選組がこのような野党共闘の路線に背を向けていることに疑問を持っているみたいでした。別にそれが悪いとは言ってなくて、代わりにどういう政権奪取の構想があるのか聞きたい感じかもしれません。

 

山本さんの答えは、まず立憲民主党と自民党はほとんど同じで、人権的なフレーバーが加わっているだけなので、その2党で政権が交替しても、根本的にはあまり変わらないということでした。新自由主義的な傾向が国民生活を破壊するという基本のトレンドは変わらないということですね。

 

そして野党共闘路線に乗ることが実際に何を意味するかというと、立憲民主党の候補者を通すために、れいわ新選組が一方的に候補者を降ろすことになります。この選挙区では、れいわさんの候補者を統一候補にしましょう、みたいな譲り合いは存在しないようです。そこに働いている精神は、大義のために必要な手を打つことではなく、単なる利己主義的な争いなんでしょう。

 

そんなものに乗っかって、れいわが得られるものも何もないし、国民が得られるものもほとんど何もない、ということなんだと思います。

 

しかし野党共闘に背を向けると、政権交代は遠のくし、れいわ単独でもなかなか所属議員が増えて行かないので、国民生活が変わらないということでは、単独路線でも同じなんじゃないかという疑問が、質問者さんの頭には上るのかもしれません。

 

最近、2019年の山本太郎さんの街宣のビデオを見たんですが、その時点で既に、時間がもうないですよ、今やらないと、みんな食われてしまいますよ、という焦りが表現されていました。

 

今の時点で、それから何年も経ってしまっていますが、山本さんがイメージしたほど、れいわ新選組の規模は大きくならなかったし、寄付金も足りなくて、候補者も十分に擁立できなかった、ということだと思います。

 

当時から、れいわ新選組が、あるいはれいわ新選組の国民運動が、どれくらい大きくなるかは、自分たちが決めることじゃなくて、国民が決めること、という発言がありました。

 

国民の意志は、れいわ新選組よ、大きくなって、単独政権が担えるくらいになってくれ、というものではなく、へえ、なんか変わったことしている人たちがいるんだね、くらいだった、ということかもしれません。

 

山本さんは、多くの国民にわかってもらって、自分たちに国会や政府で中心的な役割を果たさせてほしいと思っていると思いますが、民主主義は、国民の多数派と足並みを揃えて政策を進めていく体制なので、国民の大多数が反応してくれないとどうしようもありません。

 

もし国民の大多数が支持してくれたら、手練手管で立ちはだかる難敵は、世論を背景に、戦って斥けることができるでしょう。そしてもし世論の味方がなかったなら、戦う正当性が存在しないことになるので、客観的に見たら、一部の人が自分たちのわがままを通そうとして駄々をこねている、というふうに見えてしまいます。

 

仮に、世界や人間に対する包括的な理解を持っている人が見たら、今の状況では、どう見ても、れいわ新選組の支持をするのが正しい、と思われる状況だったとします。

 

しかし他の多くの人が、世界や人間に対して狭い見方しかできていなくて、れいわ新選組の価値や必要不可欠性についてまるで理解していなかったとします。その場合、多数の意見が通るので、一部の賢者の意見は斥けられます。

 

人々がもっと賢かったなら良かったのにな、という話になりますが、現実は、人々はそれほど賢くなかったわけなので、こうなって当然ということでもあるのです。

 

山本さんはもう時間がない、一刻も早く事態を動かさないといけないと思って、新党を立ち上げましたが、それに呼応する人は、それなりにいたものの、大きなムーブメントを起こすにはちょっと足りない規模だった、ということだと思います。

 

その現状認識を持てば、どういう戦略を立てているんですか、という質問は出てこないかもしれません。

 

必死で訴えても人々が応えてくれない時に、それ以上、戦略も何も存在しないし、そんなものがあるとするなら、催眠的な大衆誘導の技術を使って、人々をコントロールすることしか存在しないんじゃないでしょうか。

 

人々はちゃんと見識を持っているし、真心を持っている、しかしそこに訴える努力が欠けているから、そこを頑張れば結果はついてくる、そういうことが事実であるなら、頑張りようはあります。しかしおそらく、人々がまだ身分制社会の習慣の中で生きていて、民主主義国の担い手としての力量がまだ不十分ということが、実態としてあるんじゃないでしょうか。

 

そういう人を相手に、中世から近代への移行の勧誘をして回るということをやるなら、今すぐ結果は出ず、今後も続いていく長い説得と包摂の道のりになるんじゃないかと思います。ある種、宗教の勧誘みたいなものですね。ヨーロッパ近代の精神の価値と説いて、古い信仰の世界から改宗してもらうみたいなことになっています。

 

改革には早く着手したいので、100年かけて人々の精神風土に介入するみたいな悠長なことは言っていられません。なので、人々が古い考えのままでも、先天的な資質のままに生きているだけでも、その状態で通じ合える部分が何かあるなら、そこで通じ合って信頼関係を結びたいということでやっています。

 

それで山本さんがかっこいいから応援するとか、一生懸命やっているから評価するとか、そういうことでも良しとされています。

 

日本国民が見識を持ち、聞く耳を持っている可能性がある。訴える前にはそう考えられます。しかし実際に訴えてみて、期待したほどの反応がない場合、見識はなく、聞く耳も持っていなかったと結論づけるしかない場合があります。訴える人の人間性や、訴える内容によっても結果が変わってくるので、私の人間性や見識が不足していました、という結論になることもありますが、国民の方が力量不足の可能性も存在します。

 

こうすれば国民が幸せになれる、という道を誰かが示し、それに反応すれば幸せになれたのに、大多数の国民がそれが理解できずに、自らの愚かさに合った生活環境を受け取ることになる、そういうことはありえます。

 

これは悲劇ではありますが、当たり前のことが起きているだけとも言えます。同胞にはもっと安楽で、もっと幸福に生きて欲しいと考えるのは、その思いを持った人の願いであって、現実には、人は自分自身の実際のありようにふさわしい運命を受け取る、ということだろうと思います。

 

期待をかけるから失望するのであって、自らの実態に合った報いを受けると考えるなら、おかしなことは何も起きない、というふうにも考えられます。

 

それで日本の民度は低いなあ、と言う場合、過大な期待をかけたために失望が生じていると考えられます。

 

人々は自らの実態に応じた運命を受け取る、そう考えていれば、それは愚かでもなく賢明でもなく、ただその人たちの現在のありのままの姿であると思えてくるんじゃないでしょうか。

 

聞いてみないと調べてみないと、他者の内面生活はわかりませんし、多数の総合的な内面生活は特に、調べて情報をとらないとわかりません。

 

それでどうやら、人々が自らの愚かさのゆえに自らの生活を厳しいものにしていっている、と見える事態になったとして、愚かなんだから自ら報いを受けろよ、と言っているのでは、無慈悲になってしまいます。そして無慈悲な人でなければ、変に期待して失望したのでなければ、自らの愚かさが原因であっても不幸になろうとしている人を気の毒に思い、どうにかして助けられないかと考えると思います。

 

基本は、愚かさを持っている人は完全な人間になっていくためにそれを解消しなければならないので、自らが学ぶために、不幸な運命を受け取る必要があるかもしれません。それによって学ぶことができ、自らの愚かさに気づき、改善がはかられたら、人間性がもっと向上していく道が開けるし、同じ種類の不幸な運命はもはや必要なくなるでしょう。

 

それで、その人の運命の全部を救うことは、一人の人間にはできないかもしれないですが、部分的に少しでも苦痛を取り除いてあげる、あるいは声をかけて励ましてあげることくらいはできるかもしれません。

 

こういう観点で見ると、一般国民という集合的存在は、数多くの詐欺師に取り囲まれて、日夜洗脳を受けていて、なおかつ自らの中にも悪徳があって、自分自身の目を曇らせている、といった存在に見えるんじゃないでしょうか。

 

この集合的な人を助けようと思うと、なかなか骨が折れる仕事になるんじゃないでしょうか。

 

あるいは、気持ちが通じて、健全な勢力が一般国民の支持を取り付けられたとするなら、雲が晴れて、明るい生活が始まるかもしれません。そういうこともないとは言えません。

 

しかしながら、人間が生きる意味が、自分自身の欠陥の克服、自分自身のさらなる発展であるとするなら、幸福は別に追い求めるべき大目標とは言えず、不幸もうまく活用されるならいいものだ、ということになると思います。

 

今すぐの、インスタントな救済は、本当の救済にとってはむしろ妨害になるかもしれません。そういう意味で、集合的な一般国民という存在とは、すぐに何かの結果に結び付けようとせず、長い目でお付き合いしていくべきものかもしれません。