人生詰み、こいつは終わり、みたいな言い方がありますけど、どこから来ているんでしょうか。

 

実際のところは知らないんですが、何となくゲームから来ているような気がします。

 

ハック・アンド・スラッシュのゲームで、育成要素があると、戦士に育てようとか、魔法使いに育てようと、好みによってゴールを変えられるんですが、シングルでプレイしているのに、魔法使いを選ぶと、戦士やパラディンに守られてこそ力を発揮するので、撃たれ弱すぎて先に進めなくなる可能性があります。

 

そういう時に、スキル・ポイントの振り直しができれば、最初からやり直す必要はありませんが、それが禁止されていると、ゲームはそこで頓挫して、最初からやり直すしかありません。

 

このことを詰みとか、終わりと表現している可能性があります。

 

そしてそれを人生に適用した場合、人生はやり直しが効きませんので、リプレイの可能性はなくて、そこで本当に終わりになります。

 

家庭が貧しくて、上級学校に行けず、就職口が非正規雇用しかなかった、これで詰み、みたいな感じで、詰みという言葉が使われているような気がします。

 

あるいは、飲食店のアルバイトをしている時に、面白半分に不衛生な行為をして動画を配信し、それがバレて、社会的制裁を受けた場合なども、この人は詰みだろう、と言われるのかもしれません。

 

極端に言えば、何らかの形で成功者のコースに乗れなかった人は、全員、詰みという感じでしょうか。

 

また、選挙で最悪の人選が行われたら、この国はもう終わりだ、みたいな感じで、終わりという言葉を使うこともあります。

 

人生の方は、浮かび上がれなくて、日の目を見ることがなくて、一人ひっそりと死に向かって歩んでいくしかない境遇は、詰みや終わりという言葉に、かなり合致しているかもしれません。

 

しかし国家の営みの方は、終わらないでしょう。ものすごく過酷な生活環境になっても、そのまま営みは続いていきます。

 

戦争に負けてすぐの国民生活は耐え難い状態となっていて、本当に耐えられない人は自殺します。それ以外の人は頭の中をからっぽにして、ただ生存本能の赴くままに生きているのかもしれません。

 

しかし全員が自殺するわけではなく、耐え忍びながら復興に向かって進んでいきます。

 

それで、簡単に、これ以上悪化したら終わりだとは言えないんじゃないかと思います。どこまでも状況が悪化し、見るに堪えないところまで行っても、人はまだ生きなければならないからです。

 

簡単に終わりだと言って、先を見るのをやめることを避けるためには、歴史上のもっと過酷な時期に目を向けるといいと思います。そこに行かないように、それ以上のところに行かないように、今できるだけのことをする、と考えられると、現実的になっているんじゃないでしょうか。もう終わりだ、ダメだと、言っても、そこで終末がやってくるわけじゃなくて、まだ先へと続いていくからです。

 

一方で、個人の人生においても、終わりというものはないと思います。生きることが難しくなって、死ぬしかなくなっても、死んだ後にはすぐに死後の世界がやってきて、そこで来世に向けての準備が始まっていくからです。

 

ひとつの結末は、次の展開の出発点になります。それである時点で満足したり諦めて、これで終わりだと言っても、そこから出発して次の展開がすぐに始まるわけなので、気を抜いている暇はありませんし、前向きな展開を呼び込む動きをしなかったら、いつまでも同じところをぐるぐる回る羽目になるでしょう。

 

詰み、終わりを、早い段階で見越すことができる意識は、そういう意識が一般的になる前の、ぼんやりした意識よりも進歩しているとは言えます。

 

しかし、先を見越して計算をして、結果が良いものになるように奮闘する時、その計算は、小さな円を描いて成果をさらってくるような動きであって、もっと幅広い人生の要素に目を向けると、もっと大きな円を描いて成果をさらってくることが可能になるんじゃないかと思います。

 

企業経営で言えば、短期利益を出すために、会社の資産を売却するなんてことが成功だとみなされるかもしれませんが、人材を生かして、もっと長期的な計画を実現することができれば、もっと大きな成果が実現できる可能性があるんじゃないでしょうか。

 

以前の時代には、意識的な人生観が合理的に形成されていたのではなくて、古い時代の啓示による教えが文化の中に残存していて、人々は無意識のうちに広い世界を組み入れた人生観を持っていたのだと思います。

 

そこから発想したことは、理に適っており、個人生活も社会生活も、理に適ったものにする力があったのだと思います。

 

職業安定所なんてなくても、働き口のない人がいたら、うちにこないかと誘ってくれる人がいたんじゃないかと思います。人間は働いてこそ意味があるという信念があったり、どんな人もちゃんとした生活が送れなければ、その人の親がなくといった意識があったからだと思います。

 

そういう人生観は、無意識的なもので、人々が信じていることは、ひとつひとつ取り出すと、ただの思い込みみたいなものなので、近代科学的な合理性で判断すると、全部非合理に見えてきます。

 

それで近代科学的な合理性によって、以前の時代の人生観を整理して、人生を純粋な経済ゲーム、生存競争ゲームととらえ、それを合理化しようとした結果、多くの人が、途中で、詰みやら終わりの状態に追いやられることになった、という感じがします。

 

それは賢いと言えば賢いが、愚かと言えば愚かです。

 

意識的になること自体は、今の時代に進行している適切な方向性なので、それはいいのですが、人生観が狭すぎることは解消すべき問題です。

 

死んでも人生は続いていくのだ、という発想は(それが絶対に正しいとは僕には言えませんが)人生観を広げています。

 

現代の狭い人生観、経済競争に打ち勝って、他の人とは段違いのリッチな生活を楽しむのだ、という発想が、聞くだけで何か間違っているような気がする人は、古い時代の叡智を少し残しているか、新しい時代の意識的な叡智の獲得に向けて少し進んでいるかのどちらか、かもしれません。

 

全く疑問に思わない人は、現在に過剰適応して、過去と切れ、未来とつながっていない人と言えるかもしれません。