人間は皆、生前の世界からやるべき課題を持って地上世界にやってくる。しかし地上には人間を横道に逸らせる力が、種々働いている。そのひとつが性的誘惑である。

 

性の働きそのものは、生殖の働きにつながるもので、それは地上で次世代を生み出し、文明を継承し、遺伝的資質をつないでいくために必要なものだ。

 

であるので、悪いのは性への耽溺であり、性に必要最小限に関わることは別に悪いことではない。

 

性への関わりが多すぎず、少なすぎないように、人々をコントロールする役割は、古くは、族長や聖職者の仕事であっただろう。

 

しかし族長支配や宗教支配の時代が去ると、管理は国家または個人に任されるようになった。

 

近代国家は、霊的世界と分かたれているため、人口の管理は単に国力の増大を意図して行われている。

 

元々は、天の配剤によって、どんな人間がどのくらい地上へと運ばれてくるかに応じて、地上で受け皿を用意することが、族長や聖職者の仕事であったと考えられる。

 

性の管理や性的行為そのものは、神聖な仕事であっただろう。

 

今では兵士や労働者を生み出すために国家が出産を奨励するか、管理が完全に個人に任されて、好きなように性の喜びを享受する事態になっていると思われる。

 

性行為への耽溺の何が問題なのかというと、まずは他にやるべきことがあるのに、それを置いて、横道に逸れているという問題があり、それが一番だと考えられる。

 

横道に逸れて、しかしそこで何かを学べることもあるので、全部が無駄な時間とは言えないが、いつまでもそこに滞在すると、徐々に学びと横道の比率が変わり、無駄が多くなっていく。

 

そして性的行為に耽る時の人間の思いは、アストラル的空間で表現されるので、それはひとつの宇宙的行為となる。それは人間を横道に逸らす力に屈して生じるものなので、本来あるべきものとは異なる。それでアストラル的世界を、本来あるべきでないもので汚染する形になる。

 

それが人間にとって慰めとして必要な分量であれば、それは宇宙から容認されるかもしれない。その慰めを人間から取り上げると、苦痛に直面しなくてはならくなり、それに耐えきれないと活動が頓挫してしまう可能性があるから。

 

しかし必要もないのに喜びに耽溺するとなると、ここには前向きなもの、人間をあるべき姿へと向上させ、宇宙のために働かせる要素が、ほとんど見られなくなる。

 

性は、民族とは違う、もう一つの種族の区分となっていて、人間は、人類一般と個人と民族と性という複数層の構造となっている。

 

この中で、もし人類一般や個人に意識の中心を定めると、性はある種の身体的特徴を決めるファクターにすぎず、そこから何らかの能力を得ることはできても、自分自身が、そこに縛られたり、そこに規定されたりはしない。

 

私は私であり、人間であり、男でもないし、女でもない。日本人ということも、外国人の視点を持ち込まない限り意識されない。あるいは民族的特徴について語る時、国民国家について語る時にのみ意識される。

 

人類一般や個人として自分を意識している時に、男や女に意識の中心を置いている人を見ると、身体的なものに規定されていて、自由でないように感じられる。