UIチャンネルを見ました。高野孟さんと有田芳生さんの対談でした。お二人ともジャーナリストという共通の属性があるので、その共通部分の話をほとんどの時間やっていました。

 

高野さんと有田さん、そして少し広く取った同世代の人たちは、みんなオーソドックスでトラディッショナルな訓練を受けてきたみたいです。

 

原稿を書いてデスクに持って行くと、読んだ後無言でゴミ箱に捨てられるとか、本の原稿を書いて意見を聞くために先輩に読んでもらうと、全く褒めてくれずに酷評されるとか。

 

つまりダメ出しはされるけど、どこがダメなのか言ってもらえなくて、どうすれば良くなるかは自分で考えて見出さなければならないということです。そしてあんまり不親切で人の気持ちを考えない対応なので、涙が出てくることも多々あるということです。

 

先輩も同じような訓練をしたということなんでしょうけど、結果、ある水準まで仕事能力を引き上げているのだと思います。その水準から見て、新人の技術が足りてないと、そこをただ指摘する、それ以上のヒントは一切出さない。

 

なぜそんなに不親切なのかというと、忙しいせいかもしれないし、そこまで人に優しくしないのが当たり前だったのかもしれませんが、わざと厳しくして這い上がってくるのを待つといった教育の方法論があったせいではないと思います。

 

慣習でそうなっていたということであり、無意識の集合的な所作だったんじゃないかと思います。そして無意識に受け継がれている文化には、伝統的な叡智が生きていた可能性はあります。

 

実際に、高野さんがいた会社だけが厳しかったわけじゃなくて、同じようなことを他社のどこでもやっていて、他者出身の記者に話を聞くと同じような話が出てくるそうです。

 

多分、新人が厳しく扱われて、泣いたり苦しんだりしているのを見ても、馬鹿にしたり、軽蔑する人はあまりいなくて、お、やってるなと笑って温かく見守っている感じじゃなかったかと思います。

 

厳しい試練に直面している人が、取り乱したり、感情的になったりするのは当たり前で、頑張って壁を乗り越えて、いい記者になってほしいな、という感じで見ていたり、みんな同じ道を通ってきているのだから、お前も頑張れよみたいな応援の姿勢があったんじゃないかと思います。

 

今の時代には少し状況が変わっていて、人間がもっと自己意識的になっているし、軽蔑や差別をする側ももっと意識的になっているので、何かやって、自分ができない人間であることを示してしまった時に、誰もかばってくれなくて、見下されている感じがするし、何とかしようと奮闘する時に泣いたり苦しんだりしていると、汚らしいと笑われる感じがします。そして本人も、自分が周りからどういうふうに見えるかを意識してしまって、敵は目の前の課題以外にもたくさんいるという感じになってしまいます。

 

結果的に、厳しくすると新人が潰れてしまう状況になって、仕方がないので優しくすると、今度は、水準に達しない記事が書かれ、掲載されるようになる、という流れになっているのかもしれません。

 

そして、昔、報道に要求されていた水準というのは、ただ見聞きしたことをそのまま書くのでは全然不十分で、それは出発点に過ぎず、それが何を指し示しているのかを考えて、こうかなと思うことがあれば、それを事実によって裏付けるべく、新たに取材をする、という感じのことみたいです。

 

現象の記述だけでは不十分で、本質を描き出すところまで行って、初めて報道となる、みたいな感じでしょうか。

 

僕も現象の背後にあるものを描き出したいという願望を持っていますが、僕の場合は事実による裏付けが適当なので、記者の苦労はしてません。記者は裏付けのないことは書けません。記者の予測はそれだけでは空想かもしれず、空想を事実のように言うと嘘をついてミスリードすることになるからです。

 

この事実の裏付けをとるという手法は、もちろん大事なことで、それがなくなると、読者は記事に基づいて考えたり、書いたりできなくなるでしょう。本当かどうかわからないわけですから。

 

関東大震災の時の暴動の報道では、噂で聞いたことをそのまま書いてしまっている例がたくさんあって、研究者は報道にあまり頼ることができず、他の裏付けを探す必要があるようです。当時の新聞はまだクオリティーが低かったのかもしれません。

 

そう考えると、高野さんたちの受けた教育が厳しかったのは、敗戦後に国家運営にとってジャーナリズムが大事で、ジャーナリズムを刷新しなければならないという意識が生まれて、クオリティーが引き上げられたのかもしれないと思ったりもします。

 

しかし事実に基づいて、さらに調べて本質を描き出すということでは不十分なところもあると思います。

 

単純に、政治家の密談など、記者が入って行けないところで起こっていることを知ることができない、という問題があります。そこはリーク情報をとった上で、想像で埋めることになります。

 

証言も含めて、事実は取れる限り取っています。しかしそれでも足りないので、想像を少し入れます。

 

それはいいんだけど、事実、事実と、事実を追いかけている人が、たまに想像もすることになると、想像のクオリティーが低くなるのではないか、という感じがします。

 

論文を書く時も、データを次々に並べていって、最後の考察のところで、クオリティーの低さを示している例があると思います。

 

イマジネーションの世界で活動するのにも、経験が必要であり、習熟が必要なんじゃないかと思います。

 

普段、膨大な事実に接しているために、そこで感じ取ったものがあり、それに基づいて考察するので、なかなかいい線を突いている、ということもありえます。

 

しかし考察には慣れてなくて、しかし何か書かないといけなくて、適当に何かでっちあげている例も多いと思われます。この適当な空想があるので、ある時期、僕は新聞記者出身の人の本にがっかりして、新聞記者出身の人の本はやめておこうと考えたことがあります。

 

発表もので終わってはだめで、もっと本質をえぐりだすようなさらなる取材が必要だ、というのが、今、ジャーナリズムの再改革、再刷新を考えている人の意図なのかもしれません。それはやってもらった方が、国民にとってもいいかもしれません。

 

ただし、そこまでやっても、本質の解明は端緒についたばかりで、別の職業の人が引き継いで、もっと先に進むべきじゃないかと思います。

 

ジャーナリストが、社会学者とか文学者の力を借りようとする場合が見られるので、それはそういう意図だと思われます。ただし実情を見ていると、社会学者でも文学者でもまだ十分な仕事ができているようには見えません。

 

それぞれの人が自分はまだまだだもっと上を目指さなければ、と謙虚に考えている場合は、あまり心配する必要はないと思います。しかし自分もなかなかの仕事ができるようになった、なかなかの地位を得たと、現状にとどまる姿勢だったら、ちょっと心配です。

 

高野さんはSNSをやりたくない、やらないと言っていましたが、何が嫌なのかはいまいちわかりませんでした。自分としてはよく調べてクオリティーの高い記事を書こうとしてきたので、思いつきや憤怒の感情をそのまま書いていいというルールでやっているシステムと、どう付き合っていいかわからない、という感じなのかもしれません。

 

単純に考えて、レベルの低いものを相手にしていると、自分までレベルが低くなるかもしれないですから。

 

これに関しては、それは全く違う世界であって、違う世界と相対する時には、全く違うやり方で対処するということかなと思います。

 

アーティストが作品を作る時の姿勢と、作品をプロモーションする時の姿勢が、全く違うのと同じかもしれません。

 

SNSではダメな子たちの相手をする意識でやるとか、議論はしないことにするとか、普段の仕事と切り離して考えたらいいんじゃないでしょうか。

 

番組を見ていて、全般的には、古き良き時代を体現しているお二人から、円熟した雰囲気を感じられて、いい気分になれる時間だったという感想です。