ここでセックスというのは、性別のことではなくて、性的交合のことです。

 

この分野では、多くの人がそれぞれの立場から語っていて、結局、何が正解なのかわからないので、見解を定めたい人は、他の人の意見を参考にしながら、それぞれ誰にも頼らず自分自身の考えを確立することになりそうです。だいたいこの考えに従っておけばオーケーという考えが見当たらないからです。

 

最も禁欲的なものは、生殖以外の性的行為は全部罪という意見です。精液を地面に垂らすと罪という理解に基づくと、一人ですることができません。男女で避妊せずに性交すると、どんどん子供ができて養えなくなるので、あまりむやみにできません。割礼という慣習もあって、強制的に自慰行為をできなくする措置のように思われます。

 

子供を虐待すると、自然と自慰行為を始めるという情報もあります。これが痛みや苦しみを癒す手段として使えるということなら、そんなに悪いことではないような気もします。

 

最も開放的で、最も貪欲なものは、女として生まれてきたからには性の喜びを味わい尽くすべきで、そうしないのなら人生を損している、という考えかもしれません。

 

普通、絶頂というと、快感が高まって、階段の踊り場のようなところで一旦落ち着くことを言うのだと思います。それが何回もあった後で、そのうち次元の違う段階に至ることが報告されています。ここでは意識を失うか、意識をもうろうとさせることが起こるようです。

 

これは気持ちがいいことなのか、かなりの疲労を伴うものなのか、そこまですると粘膜をすりむいたりしないのか、またやりたいと思うものなのか、その辺は僕は知りません。

 

クンダリーニ覚醒という言葉もあって、性的な営みを究極まで推し進めると、意識の覚醒が起こるという話もあります。僕が知る限りでは、今の時代には合わない行法となっているようなのですが。

 

そして中間的な考えは、夫婦で子供を作る時にセックスをするか、時々互いを労わるためにするかという、淡泊でもなく貪欲でもなく、ほどよく付き合う感じになると思います。何もしないと距離があるような感じがするし、ずっとそんなことばかりしていたら他の楽しいことができないし、仕事に差し障りが出たりもしそうです。

 

何事も極端に走らずに中庸がいいという考えに従えば、中間を狙っていくのがいいように思えますが、中間でも、もう少し上が正解なのか、もう少し下が正解なのかと迷うことがありそうです。

 

本当は、一番濃密な経験をして、知識や技術を蓄積している場合の方がやりやすいかもしれません。濃密な方向に導いてほしいという要求があったら、それに応えることができるし、そこまで求めないという人がいたら、それに合わせることもできるだろうからです。

 

しかし知らないと、希望の通りにできないかもしれません。

 

生殖という意味では、ほぼ精子や卵子が健康かどうか、その他の生殖に関わる人体が健康かどうかが重要ですが、セックスの行為そのものに関しては、他のことがいろいろと関係してくるかもしれません。

 

太っているとか、体が硬いと、特定の体位がうまくできないとか、早漏、遅漏ということもあります。会っていきなりホテルに行こうというのも風情がないので、順番に雰囲気を盛り上げるような手順も必要みたいです。

 

一連のことがうまくできる人は、相手のどういう要望にも応えられていいかもしれませんが、この分野にあまり関わりたくない、あるいは中間くらいでいい、と思っている人は、いろいろな要望に対してうまく応えられないかもしれません。

 

技術や知識の不足に対しても、淡泊に対応するか、中間的に対応するかになると思います。貪欲に対応するなら、性の世界の奥地にまで自分で探求しなければならないからです。

 

そこまでしたくない人は、できることはしてあげる、できないことはできないと、素っ気ないことを言うか、教えてくれたらできるようにする、みたいに学習の方向性を示すかですかね。

 

性的な男女関係の基本の構図は、男が追い、女が逃げるような関係なので、男があれをしたい、これをしたいと要求して、女がそれをいいと思えば承諾し、嫌だと思えば拒絶するような関係になっていると思います。

 

そこで男が権力や暴力を振りかざして、女の拒否権を取り上げたり、抑圧して譲歩するように迫ったりすると、表面上はお互いに納得しているように見えても、喜んでいるのは男だけで、女は意に染まないことをさせられても我慢しているということになります。

 

この場合の事例が、犯罪や犯罪手前の現象として取り上げられるので、男は自分勝手で暴力的で、女は被害者で保護されるべき、という話が出てきます。

 

しかし犯罪にならずに、お互いに納得できている場合もあるでしょう。それでも、そこで双方納得しているのは、セックスが自分だけがうれしければいいというものではなくて、相手にも、というか相手にこそ喜んでもらいたいというふうに、人に思わせるものだからです。

 

それで、自分は別にやりたくないけれども相手が喜ぶならとやって、お互いに譲り合って、両方相手のためにやっていて、それで満足しているというケースもあるかもしれません。

 

しかし快感の点では、自分の満足もあり、それぞれの欲望が一部は重なり合いながら、他では自分のためではなく相手のためにやっていて、一種自分は我慢している、ということが起こっているんじゃないでしょうか。

 

そこで、相手のために我慢してやっていることを取り除いて、自分にとってうれしいことがどれくらいあるのかを調べるとどうなるでしょうか。男の方がもらい得なのか、女の方がもらい得なのか、どっちでしょうか。

 

僕は男の方がもらい得という感じがしますが、男が身勝手にいろいろやった時に、女の方にもそれなりに楽しいことがあるんでしょうか。

 

多分、全部が楽しいわけじゃなくて、自分がうれしいこととずれていると思う場合も多いのかもしれませんが、いくらかはうれしいこともあるんじゃないでしょうか。

 

中には、男が言ったことを、女が自分に都合がいいように曲解して喜んでいる場合もあるかもしれません。男の方は普段見せない乱れた姿を喜んでいるのに、女の方は一番美しい形の時の自分を褒められたように感じているかもしれません。あるいは乱れた姿を褒められてもうれしくはないけど、それでも気に入ってくれたのならいいかと妥協しているのかもしれません。

 

僕自身は、性の究極に、何かすばらしいものがあるなら、自分ではあまり見たくはないけど、僕が淡泊なせいでパートナーがそれを見られないのは申し訳ないと思ったりします。

 

もうちょっと先に行きたい人の指南書みたいなものがあればいいのかもしれません。とことんまで行きたい人はあまりいないとしても。医学的に危険がないのかよくわかりませんし。

 

初心者を中級者に導くものがなければ、寝とられものみたいなドラマが現実に起こるかもしれません。もっと面白い世界に導ける人の需要が高まるからですね。

 

一番の問題は、こんなことばっかりしてたら他のことができなくなるということじゃないかと思います。民主主義社会では、政治運動や社会運動にも時間を割く必要があります。