ブイチューバーさんをいろいろ見たんですが、面白い人が一杯いるなあと感心しています。

 

アバターを利用すると、実写よりも面白い効果が出るというような話ではなくて、単に演じている人、中の人が芸達者で面白いのだ、という受け止めをしました。

 

ブイチューバーさんは、テレビやサブカルチャーに多く触れていて、そこから一定、芸の内容を受け取っていると思われます。しかしそれだけではなくて、やはり実際の配信の中で、視聴者とのやり取りをして経験を積んできた部分が大きいのではないかと思われました。

 

よくある分析ですが、素質×経験で実力が培われる、という感じかなと思います。

 

ブイチューバーさんは、どういう「技」をどれくらいの数揃えているかで、実力のランキングが作れそうです。好感度ランキングは少し違って、いつも豪華ディナーだったら胃が持たれるから、いつもの食事は和食がいいみたいな感覚で、自然体の人が上位に来るかもしれません。

 

僕が感心するのはまず、予想外の出来事が起きても、それに対して対応する言葉や行為が創造的な人です。

 

この分野の仕事に興味を持つのは、サブカルチャー・オタクの人が多いらしく、オタクはあんまり人前でにぎやかにするタイプじゃないので、みんなが普段から社交的で面白い人だったわけじゃないようです。今の表現力を見ると、クラスでは地味な存在だったという話が本当とは思えないですが。人によっては、今でも普段は無口な人もいるみたいです。

 

しかし自然と言葉がすらすら出てくるというのは、訓練でできるようなものではなくて、ひらめきの領域であり、霊的な世界とのつながりを持っていないとできないんじゃないかと思います。そしてそんな霊的な世界とのつながりは、子供の頃に形成されないと、後から作るのは相当難しいんじゃないかと思います。

 

なので、子供の頃から創造的だったけど、一般的な子供の意識状態と合わなくて、あまり他の人と馴染めなかった、ということはあるかもしれないと思いました。

 

そして演技力がある人も多いので感心します。

 

何々やってとリクエストが来るので、その都度挑戦して、それで身に着けてきたということなんでしょうか。普段から趣味でものまねをしていた人もいるようでした。

 

アバターは単なるデザインじゃなくて、どういう人間かキャラ設定があるので、それに合わせて演技している部分もあるようです。しかし長期にわたって演じるために、完全に別人を演じることはできなくて、そのうち中の人の人柄の方に引き寄せられていくようです。そうなっても中の人そのものではないんでしょうけど。

 

芸能人は普通、人気で測られるので、芸の達成レベルは二次的なものかもしれません。しかしブイチューバーの場合は、芸の達成具合が相当なものと感じます。

 

顔を出して活動しているアイドルの場合は、あまり話が面白くない人が多い感じがします。しかしこちらはこちらで技術を持っていて、歌や踊りは、一般的なブイチューバーさんより上な感じがします。

 

歌や踊りに関しては、歌手やダンサーの方が上ということになりますが、それに加えて、ピュアな心の表現というものがあるので、それは子供心を残して生きている人たちにしか表現できないものだろうと思います。

 

そしてブイチューバーさん同士のコラボ企画を見ていると、見る方が技量で測ったりしていても、当人たちは人柄で見ている感じがします。

 

どういう考えで行動しているのかとか、人との接し方がどうとか、自分との相性がどうとか、そういう感じのことです。僕から見て、そこまで面白くないという人のことも、技量で測っていないので、一人の人として尊重しています。

 

そして見ている人も、技量で測ったりせずに、人柄を見て好きになる人もいるでしょうから、闘技場の戦いとして見る見方ではなくて、日常の世界で隣り合った人たちが会話したり一緒に行動したりする時と同じ見方になっています。

 

僕たちの世界は、商業主義的な競争が激化しているせいなのか、人を能力で測る視点が強くなっているのかもしれません。それでむしろ、どんな人も対等に見る視点を感じると、新鮮に思うのかもしれません。

 

 

一方で、アバター技術は、ブイチューバー事業のように、芸能人が芸能活動に利用するだけでなくて、一般人がメタバース的環境で活動できるようにも考えられているようです。

 

僕の場合は、現実の自分の姿が、不格好なので、アバターをまとえるとなるとありがたいという感じで受け止めています。

 

女性で、化粧をして髪をとかしていないと自分を人様にお見せできないという、恥ずかしさとか遠慮とかを感じる人がいるようですが、僕の場合は、それのもっとひどいバージョンで、だらしなく見えるどころか、醜く不快な思いをさせる恐れがあります。

 

そこまで言うと、病気等でもっと普通と違う姿形をしている人もいて、悩んでおられるかもしれないので、僕くらいの醜さだったらまだいい方だ、と言われるかもしれません。

 

実際には図々しく人前に出ていくので、不快な人もいるかもしれないですが、何も言われません。姿形で人を差別するのは良くないという発想なのか、それとも人の容姿の美醜について、ランキングを作るような、競争的発想をしていないのか、わかりません。

 

まじまじと見るのでなければ、大抵の醜さは許せてしまうのかもしれません。

 

そしてアバターの話ですが、アバターを使うと、見た目が見苦しいという問題はなくなります。

 

しかしその場合でも、心の醜さや未熟さはなくならないし、むしろ体の問題がなくなったせいで、心の問題に注意が集まる可能性もあるでしょう。

 

姿形が不格好なので、人様にお見せできないと、ひきこもり気味だった人が、アバターを得て人前に出られるようになった、というところは一見いいようですが、今度は、心が未成熟で他者と調和しないので、見苦しくて人様にお見せできない、という新たな段階がやってきます。

 

体はすぐにはどうこうできないです。ある程度の年齢になったら自分の顔に責任が生じる、という言い方があり、相貌の変化には長く時間がかかることを示しています。

 

しかし心の方も、そう簡単に変えられるものではなくて、時間的な積み重ねというより、厳しい修練を経るかどうかで、心がどのくらい高められるかが違ってくるんだと思います。

 

今、厳しい修練の話をしましたが、温かい包摂もあってもいいです。

 

しかしそれは主として、子供の頃に親から与えられるもので、その時に十分に与えられない人もいます。その場合は、何かの才能を磨いて、人から尊敬されるようになる必要があるかもしれません。

 

無償の愛は基本は親からしかもらえないので、後からそれに似たものをもらうには、人から尊敬され、愛される存在になる必要があります。

 

親友のように、ただ近くにいて気が合うというだけで、無償の愛に近いものを与えてくれる人もいますが、親友に恵まれない人もいます。

 

自分も愛されたら自信を持てるし、人を信頼できるし、他の人のことも愛することができるのに、と思うことがあっても、愛を与える決定権を持っているのは他人なので、自分ではどうすることもできません。

 

それで結局、大人になってからは基本的に、修練を経ることで、自分を成長させる道しか残されていないような気がします。