物事に楽しい側面と悲しい側面があるという時、両方は最初から存在します。

 

見る人は自分が立っているところから見えるものを見ます。楽しい側面に先に気づいた人は、それが全体だと思って、これは楽しい世界だなと感じます。

 

しかし意識して、他の面にも目を向けていくと、ある時、悲しい側面が見つかることもあります。

 

そういう時に、自分が見ていた世界は、本当の世界じゃなかったと気が付きます。

 

もちろん、楽しい世界もあったし、今もあるので、嘘というわけではありません。しかし、その存在に気付いていない時でも、悲しい世界はそこにあったわけです。

 

最初に楽しい世界に気づき、それから悲しい世界に気づくと、両面が総合されて見えるのではなくて、悲しみに包まれて、ここは悲しい世界だと感じるかもしれません。

 

同じ世界を見ているのに、楽しい世界に見えたり、悲しい世界に見えたりするのは、自分の立ち位置が変わったからです。

 

しかしそれは、物事の複数の側面を順番に見て行っていること以外に、人間の認識の中に不完全なものが入り込んでくる問題があります。

 

自分の中に予断があると、それが反映して、ビジョンの中に予断が組み込まれます。

 

僕が、この世界は悲しい世界だという感慨を持っていても、僕の視界の中で生きている人たちは、実際には悲しいとは感じていなくて、むしろ楽しいと感じているかもしれません。

 

当事者が考えていることが事実だ、というわけではなくて、当事者が気が付いていない事実だってあるし、本来、当事者はそれに気づくべきなのかもしれません。

 

しかし観察者は、当事者が考えてもいないし、当事者を取り巻く景色の中に本来ないものを見たら、それは事実の捏造になるので、だめだろうと思います。

 

それで、自分の中の予断が見え方を歪めていないか、しばらく時間をとって検証する必要があります。

 

この目の中のごみを取り除く作業は、盲点のようになっているので、なかなか困難ですが、辛抱強くさらに観察と考察を進めて、自分に間違っているところがないか検討すると、時として、修正がもたらされることもあります。

 

しかし、観察者の思い込みの世界も、無意味ではないかもしれません。なぜなら、それが「理想」を形成する原因になることもあるからです。

 

世界がひどく悲しく見える時、でも見られている人たちが実は悲しいとは感じていないことがあります。しかし悲しく見える原因はあるし、その人がこの悲しい現実を変えるべきだと考えることは、「理想」の形成につながるし、「理想」を胸に抱いていることが、現状を追認し、世界の創造に関わらない、傍観者的な態度から、人を救うだろうと思います。

 

多分、「理想」は持つべきだし、持たないと、ただ流されて生きるだけの人間になります。

 

しかし自分が思い描いた「理想」をそのまま実現しようとすることは、ユートピア主義と呼ばれ、非現実的だとされています。

 

できたてほやほやの「理想」は、個人の思い込みが多分に含まれており、現実から遊離しています。そして、人間の思いを世界に浸透させようとする時に、世界の方がどういう状態になっているのかを理解した上で、何を実現すべきかという行動計画を立てるべきで、世界の方を無視して自分の思いだけを押し付けると、世界はそれを受け取らずに廃棄するわけです。