日本共産党の志位和夫さんがマルクスについての講演をしたという情報を見て、ユーチューブに上がっていた動画を、冒頭少しだけ見ました。

 

万人に「可処分時間」を保障するというアイデアを、マルクスやエンゲルスは持っていたみたいです。

 

いわんとしているいことは、人間は本来自由であるべきで、自分自身の成長のために時間を使って取り組むことができるのが本来のあり方だ、ということでした。

 

しかし実際には、一般労働者の中には、十分に自分の時間を持てずに、長時間労働に従事させられる人もいる、ということでしょう。

 

それで万人に自由な時間を与えようという呼びかけが行われたということだと思います。

 

確かに、この考えは、原則的には正しいと感じられました。

 

しかし全体としては、正しくないように感じられました。

 

人が置かれる境遇は、その人によって違います。

 

会社で重要な役割を担っている人は、仕事時間も増えてしまい、仕事にほとんどの時間をとられてしまうでしょう。人によっては、財産があるとかで、労働を免除されていて、自由に好きなことを勉強できます。

 

この人たちを、皆平等にすると考えると、抽象的な思考をしており、現実に即していないと思われます。

 

なぜなら、カルマの働きは、その人が必要な課題に取り組むために、最適の場所を用意するので、人によって他者への貢献と、自分への取り組みのバランスが違っています。

 

それを一律にならすということは、カルマの精妙かつ合理的な働きを無視することになります。

 

それで、もし原則を掲げるのであれば、可処分時間の少ない人にも、可能な限り自分の自由になる時間が取れるようにしてあげよう、と慈悲の心を持つ人がいるなら、考えるべきだ、ということになると思います。

 

それでも仕事が忙しすぎて、思うように自分のための時間が作れない人もいるでしょう。その場合は、機会は来世まで待つことになります。

 

人に対する慈悲の心を持ち、思いやりの心を持つということが大事なことで、結果として、可処分時間が十分に取れたかどうかは、その人が置かれた状況次第になるので、期待に沿う結果になるかどうかはわかりません。

 

そして、全てが愛によって動いているところでは、長時間労働をし、他の人が同じように長時間労働をしないで済むように身を捧げている人は、損をしているのではなくて、身を捧げることで他の人たちに愛を送っていることになるのだろうと思います。

 

利己主義が蔓延している場所では、その人だけ長時間労働をさせられている人は、他の人の無理解、無慈悲の犠牲となっているように見えます。

 

愛が広がっている世界であれば、十分な時間を与えられ、自分自身と取り組む権利が与えられている人は、他の人がそうできない状況を真摯に受け止め、他の人の分まで自分が成果を出し、他の人に還元していけるように考えるでしょう。

 

今の現実においては、今言ったような愛による連帯が存在しないので、代わりに、平等を掲げて、一律の権利を勝ち取ろうとします。愛のない人であふれていれば、それくらいのことしかできないのかもしれません。でもその場合は、人々が二つの立場に分かれて、互いに相手の思い通りにならないように邪魔する関係性となるかもしれません。