フランスの状況を紹介したブログ記事をいくつか見ました。

 

内容的としては二つのことがあり、ひとつは、フランスでは左翼のう運動が強くて、極右勢力に反対する運動が活発化しているという話でした。

 

ピケティーさんが熱弁を振るっていたという情報も紹介されていました。知識人らしく、結構、難しい話をしているそうで、それでも聞く人が付いてくるみたいです。

 

それで、ブログの著者は、それに比べて日本は、みたいに、民度論に傾斜していっていました。

 

それからふたつめの話は、フランスの左翼系の雑誌で、脱成長論者と、持続可能な開発論者が、論争を繰り広げているという話でした。

 

開発主義者の主張を見ていたら、敢然に企業の代弁のようになっていたので、単純に論を比べるだけじゃなくて、発言者のスポンサーや支援者が誰なのかという情報も必要だと思いました。

 

多分、参加者は、マルクス主義者が多いのだと思いますが、資本の揚棄という発想が出てきます。資本があると、いつまでも資本主義の害が立ち上がってくるので、資本を廃止しなければならないのではないかと考えるようです。

 

しかし資本は経済の中で重要な働きをするので、変えるとすれば、資本の形式や、資本の扱い方を変えるくらいにして、資本そのものをなくすることは考えない方がいいような気がします。

 

そして多分、やるべきことは「経済学の完成」であり、得られた経済学的な理解を、現実に移していく「人間の覚悟」を、できるだけ多くの人が持つことだと思います。

 

少数の人がいい知恵を得たら、多くの無知な人を放置しても、その少数の人だけで社会の再デザインが成し遂げられ、他の人は無知なままに救われる、というのは、あまり実現性のないアイデアのように思われます。

 

そういう観点から見ても、フランスで、知識人の話を、大衆が聞いて、興味を持ったり、理解したりしていることは、かなりの前進がみられる、ということかもしれません。

 

日本では、知識人が全く信用されていなくて、芸能人の方が信用されているくらいだし、芸能人の要素を持った知識人が登場すると、見かけだけのはりぼてでも、簡単に信じてしまうという状況があるように思えます。

 

確かにそれは絶望的に見えますが、これは愚かというより、古いという問題なんだと思います。

 

古代国家で、強大な王が力を誇示しつつ現れた時に、多くの人は感動して臣下の礼をとることになった、とイメージすると、それと同じことが現在の日本でもまだ維持されているように思えます。

 

なぜか「臣下の礼」のみが連綿と継承されていて、「人の上に立つ人間の覚悟や教養」が全く継承されていないので、上は最悪で、下は(古代人としては)非常に有能、ということになります。

 

いつまでも古代帝国の臣民をやっている人に、近代化の意義、人間の独立の意味をわかってもらうことも必要かもしれませんが、まず先に気づいた人が、自分自身を頼れるリーダーとして教育する、ということも、試みる価値があるかもしれません。