昔、大人のおもちゃを調べていた時に、一部、戦前・戦中のネーミング・センスがまだ残っていることに気が付きました。

 

具体的に何だったのかは忘れてしまったんですが、今の感覚から見ると、「陰惨な雰囲気」が感じられました。

 

「突撃」という感じの言葉が使われていたような気もします。

 

その言葉は、極端に言えば、日本軍が、朝鮮半島か中国大陸で戦った時に、女性をレイプして、事後に串刺しにして殺すということがあった、という記憶を思い起こさせます。

 

(こういう殺され方をした遺体は、シルクロード辺りの遺跡でも出てきたそうです。昔からある殺し方の感覚だったのかもしれません)

 

そこには、正妻になる人と、妾になる人を分けて、正妻は大事にするけれども、妾はそれとは違う基準で扱うといった、差別意識も感じられます。人を清浄な階級と穢れた階級に分ける、カースト制度の名残りという感じもします。

 

この話をなぜ持ち出したかというと、従軍慰安婦の証言を聞いて、土蔵か洞窟のような、狭くて暗いところに沢山の人が閉じ込められ、食べものは手渡しされずに、上から投げ落とされるというイメージを思い描き、その陰惨な風景について考えてみたくなったからです。

 

率直な感想として、いくら性行為に飢えているからといって、そんな環境でやって楽しいのだろうかと思いました。やや不謹慎な視点ではありますが。

 

女性の待遇は、戦争中だったので仕方なかったのかもしれないし、兵士の方でも、戦争をやって気が立っていたり、ストレスを受けていて、野獣の性質を解き放ってしまっていたという事情があったのかもしれません。

 

兵士は復員してから、戦争神経症になった人もいたのかもしれません。

 

ただ、特に問題なく、故郷の暮らしに戻っていけた人もいたようです。辛い経験をし、その経験自体は語らない人が多かったのかもしれませんが、自分がした残虐な行為と、平穏な村の暮らしの間に、ギャップを感じることが少なかった人もいた気がします。

 

というのは、おそらくは、カースト制度のように、ある人には誠実に対応し、ある人には軽蔑の目で見て何かの仕事を無理強いするという、ダブル・スタンダードが、普段からできていたのではないかという推測をしているからです。

 

ヨーロッパからアジア・アフリカにかけての、キリスト教徒とイスラム教徒の戦いにおいては、お互いに戦争捕虜をとって虐待していたみたいです。当時の人は、他民族を蔑視し、他民族を虐待することに、特に問題を感じていなかったんでしょう。

 

外国人を憐れに感じた人もいたかもしれませんが、その感覚は、熊撃ちが、熊を憐れに感じる気持ちと近く、相手の中にも自分と同じ魂があるとは、なかなか思えなかったんじゃないでしょうか。

 

今でも、見ず知らずの他人のことを、身内のように心配できる人はそんなに多くはなくて、古いタイプの人は、ですが、この人にも親があり、親が子を思う気持ちがあるだろう、という親心への共感の迂回路を通って、やっと見ず知らずの人を大切に思えるということがあるみたいです。

 

何もなければ、他人は路傍の石と同じです。

 

共同体主義から個人主義への根本的な転換があってこそ、どんな人の心にも同種の魂が宿っていることに気が付くことができるんじゃないでしょうか。

 

そうでなければ、まず自分の中に、肉親への愛を見出し、それと同じものがきっと相手の心の中にもあるだろうと思い浮かべることで、やっと他の人のことを大切な人間だと感じられるようになるのだと思います。もしそのような気働きが作動しないと、動物と同じように扱ってしまう可能性が出てきます。

 

しかし個人主義者になっても、それだけではまだ成長の最初の段階に到達しただけで、まだ十分ではないかもしれません。

 

他者にも自分と同種の魂があるという基本の認識、基本の感覚があると、簡単に人を傷つけることはできなくなりますが、それは抽象概念として知っているだけで、具体的に他者の魂を感じ取ることができるとは限りません。

 

今の時代の人間は、魂が肉体の中にしっかりと収まっているので、外に出て行って、自分以外の存在と溶け合うということが、ほとんどできません。

 

それができないからこそ、自我や意識を保っていられるのですが、代わりに、他の存在に対する無理解や軽視が起こってきます。

 

最初の段階では、個人主義者が他者を理解することより、共同体主義者が、家畜のように人を扱って、習性を見極め、厳しくしつけたり、優しく介抱したりする方が、相手のニーズに合致している場合もあるかもしれません。

 

何を考えているかわからない他人を理解しようとして、とんちんかんな予想をし、見当はずれの行動をする人より、人間とはこういうものだという思い込みで、取り扱いマニュアル、飼育マニュアルを作り、それに従って面倒をみてくる人の方が、的確かもしれないのです。

 

近代化され、個人主義化された人は、自我や意識的な魂を自分の中心と感じており、これが損なわれると生きていけないと感じているので、そういう人にとっては、不器用でも、人間の自由、人間の尊厳を尊重してくれる人の方が良いと感じるかもしれません。

 

しかし自我や自由よりも、感覚の快適さの方を重視する人は、自由を認め尊厳を守ってくれる人よりも、餌付けをされて快適にしてもらえる方が良いと感じるでしょう。

 

一生変わらない習性よりも、意識的に改変していける可能性を持つ人格の方が、人間にとって中心的な意味を持つという理解があると、人をうまく扱うといったコンセプトは邪道となり、人がどうするかはその人に決めさせるべきだというコンセプトが正しいことになります。その上で、同じ人間としてアドバイスをしたり協力したりするのが、自由に加え、愛が作用した形です。

 

従軍慰安婦の施設の陰惨なイメージは、日本国内にあった、精神障害者の隔離施設の、「座敷牢」を想起させるところもあります。

 

これにも陰惨なイメージがつきまといますが、それは後世の人から見たイメージで、当時の人は、精神医学的な処置と考えていたかもしれません。

 

ぜんそくなどの病気の治療として、転地療養というコンセプトがあったのと同じで、精神障害者はそのままではモンスターのようになり、誰に迷惑をかけるか知れないので、隔離して、外に害が広がらないようにすべきだ、というのが、合理的な医学的措置だと考えられていたのかもしれません。

 

知識がない人は、権威からそう言われると、それに従うしかなかったのかもしれません。

 

この感想に対しては、もっとたくさんの記録に触れると、違う感想に変わるかもしれませんが、当時は当たり前で、今から見ると残酷に見える、という部分は変わらないかもしれません。

 

僕自身も、親が僕の話を聞いても納得しないで、医者や学者の説明に納得するという場面を経験した気がします。世の中がどうなっているのかを全く知らされていなくて、偉い人に教えてもらうのでなければ、何もわからないという感じでした。

 

従軍慰安婦という歴史的経験から教訓を得て、売春をこの世から根絶することが目指すべきゴールだと結論づける人がいるかもしれませんが、他の考えとして、性欲があり、いつも誰でもパートナーがいるわけではないので、売春は何らかの形で残ると考え、しかし嫌なのに無理強いさせられる人をなくした方がいい、と考える場合もあると思います。

 

無理強いをなくするには、差別や暴力を禁止し、人権を保護する必要もあるかもしれませんが、第一にしなければならないのは、生活困窮者の支援だと思います。

 

お金に困ったら、別の形で助けてもらえ、売春をしなくても済む、という状況ができれば、売春が残っても、好きでやる人しかやらない、ということになるんじゃないかと思います。

 

売春を防がなければならない理由のひとつは、真面目な勤労や、健全な家庭生活を、性的なものがむしばむ怖れがあるということだと思います。

 

セックスにはまってしまって、仕事が手に付かないとか、正妻以外の女性と関係を持って、家族の信頼関係がズタズタになるとか、そういうことです。

 

興味を持ってふらふらっと、その領域に近づく人や、運悪くそういうものに行き当たった人を除いて、堅気の世界を生きている人を誘惑して引き込むことは、良くないことだと言えるかもしれません。

 

性的なものに過度に関わること自体にも罪があるかもしれませんが、それは本来の目的とは違う形で事物に関わることはこの世の物事を歪めることになるという、一般原則の一部のような気がします。セックスへの耽溺だけが、特別に罪深いという理由は僕にはよくわかりません。

 

子供を育むべき器官を、みだりに消耗させている、という点は、もしかしたら罪深いかもしれませんが、それも働きすぎとか運動不足で体を悪くするのと、そんなに変わらない気もします。

 

以前は、芸能界とかで、こんなヤクザな世界に来ちゃいけない、堅気の生活に戻って、普通の幸せを掴みなさいと、アドバイスをする人がいたようです。

 

芸能人をアーティストと考え、社会の重要な職業だと考えていた人にとっては、よくわからないアドバイスだったかもしれませんが、この堅気の暮らしを上に置く考えは、ある意味では、健全な感覚だったと思います。

 

その感覚があると、健全な勤労、健全な家族から、人を遠ざける可能性がある要素について、自制的に付き合う態度が生まれてくるでしょう。

 

そして、成り行きで、そういうものに深く関わってしまった人は、自分たちは隅の方で慎ましく暮らしていくべき、外れ者であるという認識を持ち、他の人をむやみに勧誘したりはしなかったでしょう。

 

このような感覚は、カースト制度に基づくもので、必然的に差別をもたらします。それで今からそこに回帰するわけにはいきませんが、人間を誘惑するものに対して警戒し、中庸の道を行けるように気を付けるという点では、正しかったと思われます。

 

これからは、自分で意識して、極端なものを避けて、軽いものを受けいれて、それでバランスをとって中庸の道を守っていく、というのが正しいのかもしれません。

 

麻薬はやらないで、お酒を飲み、アイドルは見るけど、売春はしない、みたいな。