同じ日に、管理人のぼやきラジオの管理人さんがベーシックインカムについて、山本太郎さんが生活保護について言及されていたので、僕もこの問題について考えてみたいと思います。

 

管理人さんも、山本さんも、基本的には、人間愛の立場に立っているので、事情があって働けない人には優しいのですが、働けるのに働かない人に対しては、全肯定はできないという姿勢を表明しているようです。

 

多分、自分一人でつぶやいているのではなくて、何か言うと反響がある立場に立っているため、働くのが嫌な人や、不正受給をしたい人までかばっていたら、事情があって働けない人まで印象が悪くなるということを気にしているのかもしれません。

 

 

働かない人をかばう時には、前提として、古い共同体主義の時代の社会を維持するための原則が、今でも広まっているという状況を踏まえる必要があります。

 

働かざる者食うべからず、ということを、人々の体に染み込ませると、そのことによって多くの人が怠け心を克服でき、支え合いの社会が維持できることが、そんな原則の存在理由なんだと思います。

 

昔も例外はあって、健康な人もいれば、病気がちの人もいたんだと思いますが、体に植え付けるタイプの道徳原則は、融通が利かないものなので、病気がちの人を圧迫して生きづらくさせていたと思われます。

 

殺すところまで行った例もあるかもしれないし、肉親の情が働いて、糾弾する人たちから家族を守る例もあったかもしれません。

 

新しい時代になって、植え付けるタイプの道徳原則から一歩進んで、なにゆえその原則が必要なのかという問いに対してそれぞれの人が答えを見つけることができる状況になると、固定的な道徳原則の価値は薄れ、個々人が考えて、その場その場に適用できる柔軟な道徳原則をその都度作り出す段階に進むのだと思われます。

 

まだこの移行に目が向いていない人が多くて、固定的な道徳原則を状況を見ないで当てはめる人が多くて、多数派の意見が通る、民主主義的決定の場では、そうなりがちなんだと思います。

 

進んだ状況では、理想の裁判のように、原則自体はいくつか用意されているんだけれども、状況に合わせて、どれを適用すべきか、その都度考慮するスタイルになると思います。

 

病気で働けない人がいたら、病気を抱えたままでできる仕事を見つけてあげるとか、まず治療の可能性を探るため、医療機関を紹介するとか、そういう配慮が合理的じゃないでしょうか。

 

あるいは、運命によりひどい仕打ちを受け続け、社会のために働く気持ちを持てないでいる人がいたら、その人にまでおせっかいに付き合って、勇気づけたり励ましたりするべきかというと、そこまで面倒みきれないと言ってもいいかもしれません。

 

いやそういう場合でも、とことん面倒を見るべきだという判断をする場合もあるかもしれません。

 

今なお、ほとんどの人が圧迫される環境の中で生きていて、誰からも優しい言葉をかけてもらえないままでいる、ということを考慮すると、一部の人たちだけに手厚い保護を行うのは不公平だという判断になるかもしれません。

 

そうした状況の中で、少しでも状況を良くするために最善を尽くすことが必要とされているんじゃないかと思います。

 

おそらくまだ、よりよい状況を目指せるような段階ではなくて、最悪の人権侵害、生まれてきた人を侮辱して、人間であることの誇りを傷つけるような仕打ちが多く起こっており、それを少しでもましな状態に持って行くことが、しばらく続く課題かもしれません。

 

そしておそらく、どういう状況の人を優先的に助けるべきかの判断が、それぞれの人で異なるために、生活保護やベーシックインカムの問題を話し合うと、意見が割れてしまうのだろうと思います。

 

 

ノーヘイトTVの野間さんは、管理人さんや山本太郎さんと比べて、人に厳しい感じがしますが、実は、端にも棒にもかからない人に対して、一番優しいかもしれません。

 

野間さんは、ネトウヨをやっている人に対しては、人間のクズとみなして厳しく攻撃するわけですが、相手の話を聞いて、自分が間違っているところがあったら改める姿勢を持っている人に対しては、今していることがどうしようもない人でも、野間さんは対話を試みるようです。

 

今のありようは、さまざまな経緯から、間違っていて、遅れているとしても、人間は根本的にはそんなに悪いものではなくて、良くなっていく可能性を持っている、という人間観があるため、今どうしようもなく見える人にも優しくできるということじゃないかと思います。

 

実際には、いくら言っても聞かない人に、厳しいことを言ったり、冷たくあしらうことが多くなっても、究極的に全ての人のことを許している、責めていない、という姿勢、これが感じられると、僕は安心します。

 

人を区分けして、この人たちは許せないとか、この人たちは許される領域を超えてしまった、と簡単に言う人は、今のところ僕のことを人間以下の存在と言っていなくても、いつかそう言うかもしれない、と感じて、不安になります。

 

 

怠け者の人を、過剰に保護することをやめて、突き放したり、応分の負担を求めるというのは、他に助けるべき人が大勢いて、まだ彼・彼女の順番が来ていない時には、正しいかもしれませんが、怠け者は根本的に救うべき存在とは違うと言ってしまうと、以前の道徳原則にまだ囚われていることになると思います。

 

以前の道徳原則は、あるべき道徳意識を詳しく話して聞かせても理解できる人がほとんどいない時には、それしか方法がなかったのかもしれませんが、人それぞれの状況に合わせて、人を今よりも高みに導くために、どういう配慮が適切か、多くの人が考えられる状況になれば、昔のやり方は廃棄できるようになるのではないかと思います。

 

実際はまだまだ古い時代の文化風習が残っていて、経済的に有能な人の中では、昔の勤労道徳の原則がまだ生きているでしょうし、他にも人間愛の中で実在するものは、血族への愛だけで、他の人間であれば誰でも愛する愛や、性愛を交えない愛はありえない、そんなものは自分の中にない、という主張があると思います。

 

それで、家族にいい思いをさせるため、家族にひもじい思いをさせないために、他の人から奪ってでも、お金や食べ物を調達することが正義であると考えられているでしょう。

 

そこまで物騒でなくても、他の人の役に立って自分たちの食い扶持を稼ぐ、それが正当な人間で、他の人間は社会の足を引っ張っているのだから、どこかに追放すべきだ、という考えになると思います。

 

前者は、自分たちの家族以外には冷淡な人、そして後者は、まっとうな階級とそこからこぼれ落ちる人を区別する階級社会的な考え方です。

 

現状はともかく、本当にあるべき状況を考えると、人間を愛するという時、血族を超えて、功罪を超えて、全ての人を肯定するという姿勢が、根本的にあってほしいと思います。今のままでいいということではなくて、速い遅いはあっても、全員が進歩して行ける、良くなって行けるという信念が、根本に必要だということです。

 

そのうえで、助けられる人から助ける、助けるべき人から助けるということを、できる範囲でやっていくということができればいいのだろうと思います。

 

 

山本太郎さんは、よくある、働けるのに働かずに生活保護を受ける人がいるのではという疑惑に対しては、そういう人も少しはいるだろうけど、そんなに多くはないだろうと言っています。

 

理由は、現在の生活保護の給付額があまり多くないので、働ける状態の人であれば、自分で働いてそれ以上のお金を手にできた方が、快適で安心できる暮らしになるだろうということです。

 

生活保護がもう少し充実すると、その説明は使えませんが、今の状況では、生活保護バッシングをするのは、十中八九、罪のない人を叩くことになるという話になってくるわけです。

 

実情を知ったなら、ほとんど誰もそんな生活をいいとは思わないのに、いいなあと言って、うらやましいと言い、かといって自分が真似するわけでもない、という状況は、人間らしい状況とは言えません。

 

なのになぜそんなことが起こるのかと言えば、古い時代の勤労の道徳が、人々の体に植え付けられているせいじゃないかと思われます。

 

体に植え付けられているのと違う場合は、個人の魂で発想していなくて、民族共有の魂領域から語っていることも考えられます。過去の民族の生活の中では、勤労道徳がかなり中心的な役割を果たしてきたでしょう。

 

人間個人、人間一人一人を、前にあった状態から少しでも良い状態に進歩させるという方向性は、人間の救済ということであり、カルマの好転の働きに対して、人間も関与していくということです。

 

それは民族を維持し、世界史の中で役割を果たさせるという以前の状況から去って、新しい状況が始まっていることを意味していると思われます。

 

民族も今のところまだ意味を持っていますが、徐々に個人にその座を譲ろうとしています。

 

民族が重要だと考えている人がまだ多いですが、世の中で起きていることの印を見ていけば、民族にまつわることは前向きではなく、こだわればこだわるほど災厄を招くように見えるんじゃないでしょうか。代わりに、個人の力を活かす方を見れば、それがもっと力を持てば、人間の救済につながるのではないかと感じられるのではないでしょうか。

 

人間に生きる場を与えること、活発に活動できるようにすること、生まれる前の世界から持って来た課題を果たせるようにすること、生まれる前の世界から持って来た能力を開花させ、利用できるようにすること、そういったことが必要なことだと感じている人は、そんなに多くないかもしれません。

 

代わりに、生きる場を与えられなかった人、生まれてきた途端に、あの世に送り返されそうになっている人、この世の中で苦しみと孤独の中に放置されている人、そういう人を気の毒に思う人はいるかもしれません。そういう感受性は、仏教によって育まれたものかもしれません。人の苦しさに共感する心性は、慈悲だからです。