自民党の中で、岸田降ろしが始まったという解説記事を見ましたが、総裁を交代してほしいと言い始めている人は、地方議員みたいです。

 

しかし政治記者は、その人と菅さんが親分子分の関係であることを把握していて、首謀者は菅さんという分析をしていました。

 

こうした政争のやり方は、軍隊をぶつけて殺害するというやり方をしなくなってからのものなのかもしれません。決起する時は、相手の首を取る時で、殺してしまうのだから反撃を恐れる必要もないわけです。

 

部下に言わせるやり方は、もし問題になってもその人が独断でしたことにして、大将までは処罰されないように保険をかけているということなんだと思います。

 

では以前の、軍隊で決着をつけていた時期には、戦い方は今とは違ったんでしょうか。

 

織田、豊臣、徳川の戦い方を見ると、信じられるのは血縁だけで、それ以外の人たちは利用しても信用はせず、裏切られても抑え込めるような配置にしている、という感じがします。

 

血縁の情というものは、自分にも一応はあるし、血縁者なら信じられるという思いもあるようですが、他人の血縁の情は利用しつつも、自分に関しては血縁者でも冷酷に切り捨てられる方が得策だと考えているような気がします。

 

豊臣秀吉は晩年に子供への愛着にとらわれてしまったようですが、織田信長や徳川家康は、身内であっても切り捨てることができる人だったように思えます。

 

冷酷であればあるほど有利という感じがします。

 

他の人に対しては、人質を取って、何かあったら殺すと脅して、血縁の情を使って従わせようとしますが、自分については、たとえ血縁者を人質に取られると、全く気にしないのがいい、と考える。それができれば実際の実力よりも、数倍強くなれるという気がします。

 

この観点に立つと、麻生さんは、自分の追い落とし工作に関わった石破さんのことを絶対に許せないと思って、石破さんを利用することを拒否していると言われていますから、戦国武将の冷酷さを見習ってはいない、と見えます。

 

一旦首相にすると、岸田さんのように、なかなか辞めさせられなくなるということがあるので、自分に絶対服従の姿勢を見せる人でないと、危なくて首相にできない、という事情があるなら、いいのですが、過去のトラブルに感情的に引きずられているということであれば、戦国武将らしくはないわけです。

 

今の自民党の中で、戦いに勝つ方法は、多数派工作となっていて、子供の遊びのように、終わりの笛が鳴った瞬間に多数派の側にいて、そこで中心に位置していた人が勝ち、というようなルールになっています。

 

少し前まで、多数派の中心であった人は、その時いくら目立っていても、最後の瞬間に逆転されたら、勝ちにはなりません。

 

こういうゲームで勝ち負けを決めているため、命がけの戦いというふうには見えず、大の大人が子供のように、押し合いへし合いで、何かの遊戯にかまけているように見えます。

 

なぜこうなっているのかは、多くの人の人望を集めることが、共同体のリーダーになるために必要なことであるのと、民主主義のシステムにおいては、多数派の声が優先的に実行されるというルールがあるせいでしょう。

 

軍隊を使って敵を叩くということができれば、もうちょっと大人な感じになるんでしょうけど、殺すのはなしというルールになっているので、追い落とし工作をかけると、相手はいつまでもぴんぴんしているので、当然、逆襲を狙うことになります。

 

それでもし反撃されても、俺は知らないよととぼけられるような、裏工作による攻撃となって、戦国武将では全然なくて、忍者の暗躍のようでもなくて、陰湿な農民の仕返しのようになってきます。

 

忠臣蔵の仇討ちでも、最初は、大石倉之助がだらけた生活態度を示して、世間の人々を油断させますが、最後にはきりっとした表情を取り戻し、武士として主君の仇討ちを成功させます。

 

これはやはり、人殺しの手段が武士には許されていたからで、人殺しが封じられていると、水面下の工作で、相手の政治力や信用を破壊していくことが必要になるので、長期的に、とぼけて知らないふりをして工作を続けることになるでしょうし、最後まで自分が何をしていたか明かさないかもしれません。

 

小沢一郎さんだったら、正直に大義を掲げて、まっすぐに戦え、と言うかもしれません。その場合は、多数派工作ではなくて、国民の支持を得ることを目的にするんだと思います。

 

しかし小沢さんの言うことは、人々の意識が民主主義国の国民の意識に達していることが前提となっているので、正義の旗印を掲げても、国民がそれを理解できなかったら、何も起きないという問題があります。

 

子分が率先して岸田降ろしを解しするという構図では、親分が手を汚さなくてもいいように、子分が鉄砲玉になるという意味では、武家の要素が多少感じられますが、そういうこともやたらとやるのではなくて、タイミングを見てやらなければならないようなので、あまり活気が感じられなくなっています。

 

おそるおそるやったり、やったかと思えば引っ込めたりになるからです。あるいは、自分自身の身が可愛い人が増えて、親分のためなら自分が政界引退に追い込まれても構わないという考えの人が減っているのかもしれません。