アークタイムスを見ましたがゲストは雨宮処凛さんでした。雨宮さんは最近、生活防衛マニュアルのような本を出されましたが、たくさん売れているそうです。こういうのは、「いいんだか悪いんだか」ですが。

 

雨宮さんの話は、いつもされている話とだいたい同じだったように思いました。30年に渡り、貧困化の流れが全く止まらなかったので、同じ話をずっとしなければならず、大規模化と深刻化だけが変わった点だということなんでしょう。

 

今回特別だったのは、東京都知事選で小池さんが別の人と替わる可能性が出てきたため、それで東京都の冷たい対応が変わるかもしれないとの希望が出てきたという点です。

 

蓮舫さんは最近の街頭演説の中で、都庁前での食料配布に長い列ができていることに言及したそうです。そういうこともあって、雨宮さんは蓮舫さんに期待を抱いているようでした。

 

雨宮さんの話はいつもだいたい同じなので、以前から出ていた論点ですが、2つ気になる論点があります。

 

ひとつはロスジェネ世代の人たちが、思想的には二分されているという論点です。一方には民主主義的な運動を通じて、労働組合や行政の貧困対策を拡大し、そのことによって自分たちを助けようとする人たちがおり、反対側には、新自由主義思想を内面化して、競争を勝ち抜く強い人間性こそが理想で、自分もそれに連なりたいと考えており、弱者救済の国家事業についてはとりあえず否定する人たちがいます。

 

民主主義を通じて弱者救済を求める人たちについては、自然に理解できる気がしますが、あえて分析すると、個人の人生が国家の発展よりも重いと考える個人主義に基づいており、むしろ国家は個人に奉仕すべきだという形を変えた国家主義も見られるということだと思います。

 

一方で、反対側の、自分たちが弱者で恵まれない人であるにも関わらず、弱肉強食の新自由主義的立場をとる人というのは不可解に思えます。

 

これがどういうことなのかについては、雨宮さんは外から継続的に見ているし、自分もその中にいて近い考えだった時期があったために、内からも理解できるので、ひとまとまりの見方を示してくれています。

 

ひとつは生物学の刷り込み理論と同じように、ずっと新自由主義的考えをメディアから聞かされ、親からも世の中を統べる原理は自由競争だと教えられてきたので、自然とそう考えてしまい、それ以外の考えがあることに思い至らないということです。

 

そしてもうひとつは、かつかつの生活しかできない給与しかもらえず、また病気や失業のリスクに対する補償が何もない中で、安定した地位を求めてもがき苦しんできた人たちには、希望がなくて、他者との連帯よりも、他者に対する嫌悪や嫉妬を表明する方が自然だということみたいです。余裕がなさすぎて、他人に優しくすることができない、ということなのかもしれません。

 

雨宮さん自身は、非正規労働者だった時期に、労働組合は正社員の雇用を守る存在で、そのせいで自分たちが簡単に首切りされると思っていたそうです。自分たちの権利を守るためにも、労働組合が機能しうることに気が付かなかったので、敵だと思っていたわけです。連合の動きを見ると、半分は当たっていたようにも思いますが、非正規労働者の組合も組織可能であることに気が付かないで、労働組合自体を要らないものだと思っていたということなんでしょう。

 

どうみても貧困者なのに、新自由主義的な思想を持っている人というのは、自由な経済競争の中で頑張ってきた自負があるみたいですが、スタートラインが非正規だと、なかなかチャンスをつかむことは難しい実態があるのかもしれません。

 

昔は徒弟修業の道に入ると、大金は儲けられなくても、生活していくことくらいはできるようにしてもらえたのかもしれないし、周りの人が配慮してくれて、結婚もできたのかもしれません。

 

今だと、選ぶ場所によっては、安く使える労働者として酷使され、捨てられるという結果が、ありふれて存在するということかもしれません。

 

これは歴史的に見ると、都市化の波、近代化の波が、田舎まで及んできたということのような気がします。

 

太宰治とか石川啄木のように、早くに田舎から都会に出てきた人は、自由ではあるが不安定な仕事について、それまでの農民階級の価値観を超える、新しい価値観を追求してきました。

 

中には実業界に活動場所を定めた人もいたので、そういう人は文学者のような人とは違う価値観を手に入れたかもしれませんし、文学者のような人とは違って、生活には余裕があったでしょう。成功者の場合ですが。

 

このような初期の近代化された人たちの試行錯誤は、失敗例もあれば成功例もあります。田舎の人は初期の価値観の革命には関わらず、古い価値観を維持していたので、先行者の状況を見て、成功例に学んでいけば、全体の近代化がスムーズに進んだのではないかと思います。

 

しかし田舎にいて古い価値観を奉じてきた人は、それが当たり前で、それを変える必要を感じていなかったので、都市化され、近代化された人たちの試みに関して、成功例にも失敗例にも関心を持たなかったのではないかと思います。

 

それで田舎の人の価値観は江戸時代のままで、そこに外形的な都市化の波だけが来たので、全く対応できずに、破壊的な効果だけが生じてしまった、という気がします。

 

例えば、民主主義的な自治の精神を人々が学んでいたら、自分たちで都市化のマイナス面を緩和する方策を打ち出せたのかもしれません。

 

僕の考えでは、新自由主義的な価値観に染まって、自由競争を勝ち抜くつもりで生きてきたと言う人の中の相当数が、古い価値観の信奉者じゃないかというふうに思えます。

 

古い価値観では、農家の長男は先祖伝来の土地を継承するが、次男、三男は自分の生きる場所を自分で見つけなければならないので、次男、三男は、もともと開拓者マインドを持っていた、ということじゃないかと思います。

 

自分が生きる場所を見つけるために、しぶとく立ち回り、時には他人を蹴落とし、自分が良い思いをする、というようなことが、営々と繰り返されてきたんじゃないでしょうか。

 

新自由主義者だけでなく、自営農民の次男、三男のマインドの中にも、競争を当たり前とする考え方があり、他人の力を借りてずるをする人間に対する嫌悪があるんじゃないかと思います。

 

他人の力は、自分だったら借りてもいいと思うんですが、他の人が借りるのは許せないでしょう。なぜならそれで自分が不利になるからです。同じ立場で競争している人が、親のコネとかでいいポジションを得ていくのを見ると、悔しい気持ちが湧いてくるんじゃないでしょうか。

 

国家主義的な考え方の中にも、個人は国家に奉仕すべきで、国家の力を個人が消尽してしまうのは不正だという考えがあります。

 

自分が弱く、孤立無援で、誰かに助けてもらいたいと素直に言える人というのは、内面から近代化されている人なのかもしれません。世界と自分が切り離されていると感じ、共同体が味方ではなく迫害してくる敵のように見る。全世界が自分に対して敵対する時に、一人では太刀打ちできそうにない、と感じる人は、個人主義的な感性を持っているような気がします。

 

個人主義者は、共同体から独立していて、それゆえに自分のことを弱く、はかない存在として感じるかもしれませんが、有能であったり頑強であったりしてはいけない、ということもないので、理想を言えば、有能で頑強な個人主義者を目指すべきだと思いますが、個人主義者として目覚めると旧来の共同体主義者から迫害を受けて、学ぶ場所や働く場所を与えてもらえないことがありうるので、弱くされる危険性を他の人より多く持つということがあるかもしれません。

 

今となっては、共同体主義者であったり、共同体主義者に逆らわない主義の人でも、優遇される人が一部に限られているので、厳しい場所で生き抜かなければならなくなっているのかもしれません。

 

生活保護を嫌がる人が多い理由は、個人主義者や人権主義者から見ると、生活保護バッシングの影響ということになっています。

 

しかし生活保護バッシングが成り立つのは、それを言えば幅広い共感が得られると見込まれるからで、それはやはり古い自営農民の感受性の中に、共同体から一方的に恩を受けることの恥の感覚があるせいだと思われます。

 

ほとんど同じ仕組みの、公的保険の制度であれば、迷わず受け取る人が多いです。

 

税金を払って、自分が困った時に給付をもらうのと、保険料を支払って、自分が困った時に給付をもらうのとは、ほとんど同じ仕組みですが、支払った量ともらえる量が結びつけて説明されているのが保険で、税金の方は不透明な部分があり、もらい得と思われてしまうのでしょう。

 

自分で自分の生活費を稼ぐという、誇り高き自営農民の伝統は、自分が頑張って仕事をしようと考える時には、良い方向に働いていると言えるでしょうが、そうできていない人を蔑視する時には、反・仏教的な行為、無慈悲な行為に導くと言えるでしょう。

 

そしてこの蔑視は、かつての被差別部落への蔑視と同じものだと思われます。族長が指し示す、人として正しいあり方、勤勉、節制、相互扶助、そういうものを守らない人は、追放され、蔑視されます。被差別部落は、実態や経緯はともかく、そういう間違った人間とみなされていたんだと思います。

 

ここでも結局、古い時代の族長支配の文化と、個人を救う仏教的・キリスト教的な文化との対立があるんだと思います。