一月万冊の佐藤章さんの回で、都知事選の候補者の石丸さんの独占インタビューをやっていました。

 

アークタイムスの緒方さんと望月さんも石丸さんのことに言及していましたが、記者会見のやり方を取り上げて、維新の最悪の部分と共通しているとして、非常に批判的な見方をしていました。

 

アークタイムスの視聴者と一月万冊の視聴者が重なり合っているらしくて、佐藤さんが石丸さんのことを褒めていたため、石丸さんには期待できるんじゃないかと思い、そのことをアークタイムスの方で書き込む人がいたようです。

 

緒方さんは番組内で、佐藤さんには一面を見て軽々に石丸さんを肯定せずに、多方面から検証した上で見解を発表してほしい、みたいな苦情を言っていました。

 

多分、視聴者の方は、佐藤さんが言ったからといって、石丸さんが期待できる人なんだと信じ込んだわけではないのだと思います。他の人にも聞いてみようと思って、緒方さん、望月さんにも聞いてみているのだと思いますので。

 

でもやはり人物を見る上において、他の人の意見を参考にした上で自分で判断するというより、他の人の判断を丸ごと受け入れて自分の判断に替える人が大勢いるのかなと感じました。

 

人物の評価は難しいとは思うんですが、その場合は、わからないと言えば良くて、わからないから他の人の判断を借りるということはいいと思います。わからないので仮に他の人の判断を真似しておくというのと、わからないから自分で考えるのを諦めて、他の人の言う通りでいいよと、自分で考えることを投げ出すことは、似ているようで少し違うと思います。考える権限、判断する権限を自分の中にとどめておくか、投げ出してしまい他の人に任せるかでは、少し違うと思います。それは今後の進歩の可能性を維持するか、放棄するのかの違いだと思います。

 

佐藤さんがどう思っているかについては、石丸さんのインタビューより前に、佐藤さんが石丸さんについて解説した回を聞いた印象では、先入観を持たないでどういう発言をしているかを見て、冷静に判断したいという態度に見えました。まだ十分な情報がないので、いいとも悪いとも決めていないという印象でした。

 

しかし今回のインタビューを見ると、やや肯定的に考えているような気がしました。緒方さんが指摘した、記者会見の時の対応が、維新の最悪の部分とそっくりという点は、持ち出していませんでした。

 

佐藤さんが石丸さんのことを肯定的に見ているのは、佐藤さんのこれまでの長い取材経験から、地方の疲弊の問題が気になっており、それに対して何とかしたいということを言って出てきた石丸さんに興味を持っているということがあるようです。

 

特に原発立地地域の印象が強烈で、産業は何もなくて、地域が廃れているのに、原発関連の補助金が出てお金だけあるので、巨大な前衛的建築物が建っていて、人の姿は誰も見かけないという、近未来ディストピア小説のような映像が展開しているということでした。

 

佐藤さんにとって、それは自民党政治の成れの果てに思えて、自民党政治が間違っていたか、一方向にやり過ぎたということに思えるんでしょう。それで、小沢一郎さんや民主党政権のように、自民党政治を改めるという考えの人が出てくると、期待を持って見守ってきたということじゃないでしょうか。

 

小池さんも似た動きをしていた時があったので、場合によっては、小池さんのことも期待を持って見守ることがあったかもしれません。しかし小池さんは見かけをコントロールすることと自分が出世することにしか興味がない人みたいなので、佐藤さんも見限っているということだと思います。

 

佐藤さんから見て、石丸さんは、小池さんよりは数段ましだという評価になっているのかもしれません。

 

こういう評価軸から言えば、維新の橋下さんについても、佐藤さんは一部は肯定的に評価しているかもしれません。地方の衰退の深刻さを知っていて、何とかしなければと思っている人にとっては、現状維持が最悪で、少しでも前向きな改革をやった人は、完全ではなくても評価する気持ちになるんじゃないかと思うからです。

 

逆に言えば、小池さんは見かけを取り繕うこと以外はほとんど何もしていないということなんだろうし、結局、自民党政治と同じことをしているという評価をしてりうのだろうと思います。

 

僕が石丸さんから受けた印象は、合理主義の信仰があるのかなと思いました。

 

これに対立するのは、伝統主義だと思いますが、石丸さんは、伝統主義の良さをあまり感じておらず、合理主義を通用させるのに対して邪魔をしてくる不合理な伝統主義は、これを取り除くのが当然だ、というような感覚に思えます。

 

石丸さんは市長時代に、地域おこしのために、地元のお祭りを全国に売り込んでいたらしいので、そういう意味では伝統を評価しているように思えるのですが、多分、それは端的に言ってしまうと、地域の資産を換金する発想で、それは伝統への敬意というより、合理主義精神のひとつの表れなんだろうと思います。

 

石丸さんの中では、伝統は、合理主義によって征服されるべき、役割を終えて無意味になった遺物で、もう意味もなくなっており、力も風前の灯だけれども、最後の力を振り絞って抵抗してくるので、そこを力の差を見せつけて、踏みつぶすことをやりたがっている、という感じがします。

 

明治時代に近代化と因習との板挟みになって苦しんでいた人からすると、そんなに割り切って近代の立場に立ち、伝統を圧倒できると信じられる人は、うらやましく感じると同時に、楽観的すぎるように見えるんじゃないかと思います。

 

伝統の怖さや伝統の奥深さを知らないので、そんなに割り切った態度がとれるということじゃないでしょうか。伝統の中には、残り少なくなったとはいえ今でも知恵が含まれているのだろうと思うし、近代の知恵はまだ浅はかで、伝統に含まれている古代の知恵と比べて、未成熟さを露呈する場合があります。

 

しかしある程度近代化された空間で育って、伝統の怖さも底力も知らない人から見たら、伝統はもう使えなくなった遺物で、ごみのように見えるので、掃除して片付けたら随分快適になるだろうと思えるのかもしれません。

 

石丸さんの話を聞いていると、自分の家計を合理化するのと、政府の財政を合理化するのが、だいたい同じことのように感じられているようです。

 

きっと石丸さんは器用な人で、自分の家計を合理化することは苦もなくできるんじゃないでしょうか。不器用な人だったら、自分の家計でさえ、不合理な状態で放置しているし、何とかしようとしても何をどうしたらいいかわからなくて途方に暮れる感じになると思います。

 

自分の家計も、政府の財政も、同じ部分もあるのかもしれませんが、きっと違うところもあって、それは多分、巨大すぎるとか、複雑すぎるということじゃないかと思います。世界全体をコントロールすることは、今のところ神様にしかできないと思われますが、政府の財政をコントロールすることも、人間にはなかなかの難題じゃないかと思われます。

 

しかし政府の財政も、自分の家計をコントロールすることと、そう大差はなく、自分ならうまくコントロールできるという感覚が、石丸さんはその同類の人たちの中にはあるようです。

 

これは自分の能力に対する自信なんだと思いますが、同時に思い上がりや謙虚さの欠如にも見えます。そしてやはり、時代全体を覆っている、、不信心の影響もあるんでしょう。神様に対する畏れの気持ちはそこには見られません。

 

明治時代のエリート像を考えると、例えば、柳田国男のような人は、優秀ではあっても、少し今の人とは違う感覚だったんじゃないかと思われます。昔の大人(たいじん)の風貌がどこかあって、軽々しい発言はしないように思えます。一言発すると、少なくとも周囲の人はそこに含蓄を読み取ろうとしていた、というイメージを持ちます。

 

ここには、儒教の伝統が感じられ、今ではそれはもうなくなってしまった、ということかもしれません。戦後第一世代の経営者でも、人生を語るような人がいましたから、そこの時点まではまだ儒教の伝統が生きていたのかもしれません。

 

今の時代は、人間は意識的な心魂を発展させるべき時期のようですから、その観点から言えば、これまで神様が統治していた領域にまで、人間の知恵を及ぼそうと努力することは正しい方向性かもしれません。

 

しかしこれからも長く続くはずの人類史において、今のことだけを考えていればいい、ということにはならず、未来を視野に入れるなら、意識的心魂以外のことも考慮に入れるべきなんだと思います。

 

例えばそれは、意識的心魂が到達可能な知恵よりも、もっと広く深い叡智というものがあるんじゃないかという問いかもしれません。

 

意識的心魂は発展中なので、まだ未成熟で、これからさらに成熟していくものと思われますが、それが究極まで性直したとしても、その知恵は全体を包括するものではなく、全部の知恵の領域の一部を構成するだけでしょう。

 

それゆえに、違う関心を持つ人の存在も重要になるんだと思います。

 

それで、伝統主義でもなく合理主義でもない人が存在するのだと思います。それはどういう人かというと、例えば、自由主義を信奉している人や、民主主義を信奉している人がいます。

 

合理主義者が早くから目覚めている人であるのに対して、自由主義者や民主主義者は、夢見がちだったり、目覚めるのが遅かった人たちかもしれません。

 

合理主義はおそらく数学と背景を共有しており、数学は霊的な世界を背景として持っていますが、合理主義は地上的でもあります。生命より死に近いものだからです。

 

自由主義は、地上とあまり馴染まないものを地上に持ってこようとしているように思えますし、民主主義は、他の人の存在を意識して地上生活を生きようとする態度で、世界をプライベート空間にすることの対極です。

 

こういう厄介なもの、見通すことが難しいことに憧れを感じるのは、霊的なものに親和性を持っている人だけで、地上の生活の都合だけを考えたら、そんなものは放棄した方が得策かもしれません。

 

それで、合理主義者と、自由主義者や民主主義者の対立は、物質と霊の対立、地上と天上の対立のように見えてきます。

 

しかし天上への道が見いだせないという点では、全ての人がだいたい同じ状況なので、自由主義者や民主主義者が、霊的世界の側に立とうとしても、自分たちが味方しているものの存在にあまり近づけていない、どういうものか知らないということがあって、戦うと、地上的な背景を持っている合理主義者の方が有利になるのかもしれません。

 

しかし地上世界にも、霊的世界の影響があるので、合理主義者であっても、地上世界の事物を適切に管理するには、霊的世界の知識が不足しすぎているという壁に直面するでしょう。それで合理主義者も、あまりうまく仕事ができず、時間が経過すると、成果が出ずに、人の信用を得られなくなる、という具合になっているんじゃないでしょうか。

 

そんな中でも、日本の新自由主義者は、アメリカの新自由主義者と比べて、未熟な感じがするんですが、それは何かというと、世界を根本的に変える技術を自力で生み出せる人と、他の人が作った製品を売って、手数料をもらって商売する人との違いのような気がします。

 

新しいものを自分で生み出す人と、そんなことはできなくて、うまく立ち回ることに特化している人との違いがあるように思えます。

 

人間が何かを生み出す時、今の人間は独力でそれを成し遂げたように感じると思いますが、今起こる発明には、それに先立つ準備期間があって、発明者は最後の仕上げをしたにすぎないと考えることも可能です。このような一つの成果に結びつく流れの準備には、人間だけでなく霊的存在も関与していると思われます。

 

そう考えると、何かを成し遂げた人だけを偉いとみなすことは正しくないかもしれません。何も成し遂げられない人がダメだということにもならないかもしれません。なぜなら新たな流れを作り出すために協力する無名の人も必要だからであり、まだすぐには成果の出ないプロジェクトに関わることも貴重だからです。

 

しかし今の日本の問題は、うまく立ち回って、他の人のおこぼれをもらった人に対して、それなりの評価をするのではなくて、お金を持っているだけの指標で、大人物であるように高く評価することだと思います。

 

電力会社や(人口過密地域の)鉄道会社のように、何もしないでも儲けが出るような会社で経営者をやっている人が、むやみに持ち上げられるのはおかしいという評論を見たことがありますが、僕が言いたいことも似たようなことです。

 

自分で全く新しいものを生み出している人は、ある面においては偉いと言えるかもしれません。しかしそれでも、一面性からは逃れられず、その人が人生の全ての面で優れているとは言えないし、全ての分野に適切に助言ができるとも言えないんだと思います。

 

佐藤さんが、石丸さんを高評価しているのは、日本の地方自治には難問が蓄積していて、できるだけ早く手を打った方がいいという思いがあるからで、小池さんと比べると、石丸さんの方が何かやってくれそうだという期待があるからだと思います。

 

つまり他の候補者が石丸さん以下の人ばかりだったら、佐藤さんは石丸さんを応援するしかない、ということになるのではないかと思われるわけです。

 

そういう観点から見ると、蓮舫さんはどうかなと思うところはあります。蓮舫さんも小池さんよりはましかもしれませんが、地方自治に対して問題意識や熱意を持っているとは言えないような気がします。

 

そして維新の非・民主的な態度を危険視する人なら、蓮舫さんが多くの人の意見を聞きながらやってくれるという確信を得られたなら、蓮舫さんの方が石丸さんよりもいいと判断するかもしれません。

 

佐藤さんは、石丸さんについて、人への思いやりがあるという評価をしていましたが、僕はそれは感じなくて、石丸さんの話からは、あまり人の存在感が感じられませんでした。

 

しかし石丸さんの話を聞いていて、新自由主義者一般が、社会保障の切り捨てに熱心なのが、人が憎いせいじゃなくて、不合理なものを放置することや、不合理なものが居座って手をつけられないことが腹立たしいのではないかと感じられました。

 

合理精神が世の中に広がっていくことを邪魔する不合理な存在が憎いのであって、貧しい人たちそのものが憎いというのではないのかもしれません。しかし結局、弱い人を痛めつけて生きられなくさせることになるので、人を憎んでいるのと同じことになるんですが、感情の上では、人のことを憎んでいるのではなくて、あまり重要視していないということじゃないかと思います。重要視しているのは、むしろ合理精神や人間的な知恵が、世界に入っていって広がることなんだろうと思います。

 

それは第五期(今の時代)に特化しすぎの人間像で、第四期から第六期への流れを意識してはいない、ということだと思われます。