ノンポリ学生がなぜノンポリなのか、という問いは、1970年代前後からあったみたいですが、僕もなぜだろうと思って考えてみました。

 

現時点での答えは、人間は強烈に影響を受けた時代に囚われ、新しい時代の到来を受け入れなかったり、新しい時代の到来に気づかなかったりすることが基本としてあるんじゃないかと思います。

 

今の時代でも、江戸時代に囚われている人がいるだろうし、明治時代に囚われている人がいるでしょう。戦後の高度成長期に囚われている人もいれば、冷戦期に囚われている人もいます。

 

明治維新とか、対米戦争の敗戦とか、強烈な出来事が起きた時には、新しい時代の到来に目が開かれる人が増えるでしょうが、それほどの衝撃があっても、まだ古い時代に留まる人もいるんだと思います。

 

情報として新しい現象について知ることでは、人によっては衝撃力がさほどでないかもしれません。しかし家がかやぶき屋根から瓦屋根に変わっても、自営農家から商業的な企業の勤め人になっても、それくらい大きな変化があっても、江戸時代の文化風習に留まっている人がいることを考えると、人間の恒常性=ホオメオスタシスには、相当の力があると思われます。

 

そんな中で、限られた人だけが、情報を知るだけで、新しい時代の到来に気が付き、生き方を変えるなんてことを起こします。

 

人間には前世もあると考えると、過去世で新しい時代の到来をいちはやく感じ取った人は、次の人生でも次の時代の到来に気づきやすくなるという関連があるかもしれません。

 

いつでも保守的だった人だと、周りが全部変わってから自分も変わるというふうになるのかもしれません。数世代、数十世代遡ると、ほとんどの人が労働者階級=奴隷階級だった、と考えるなら、進取の気性に富む人が少なくても当然に思える部分もあるんですが。

 

明治時代には、新しい時代を感じ取って、自由主義、民主主義を日本にも導入しようと考えた人がいました。最初にヨーロッパ諸国から新しい思想潮流が流れ込んできた時には、日本の知識人は衝撃もしくは感銘を受けて、最も好意的な人は、感激して、積極的に日本に取り入れることを画策します。

 

しかしそれは一部の人に限られたので、最初の衝撃を受けた人が亡くなって、弟子筋の人たちも同じように亡くなっていくと、後継者がいなくなって、日本社会に打ち込まれた楔は、瓦解して、消えていく運命をたどったと思われます。

 

その後には、保守的な人が作ってきた、新しい時代が来ようと何しようと、自分たちが慣れ親しんだ時代の風習を維持するという流れの中で育った人が表舞台に立ち、同種の人で表舞台を埋め尽くすようになる、そういうことじゃないでしょうか。

 

それが先進的な人から見ると、日本社会の地金が出たとか、封建的文化が残っているとか、そんなふうに感じられるんじゃないかと思います。

 

ノンポリ学生は、保守的な風土から出てきた人で、新しい文化潮流に感化された人とは、全く出てきた土壌を異にする存在、ということじゃないかと思います。

 

人によっては、学校で受けた教育は、知的なことだけを受け入れ、思想的、道徳的なことは、右から左に抜けているということがありえます。思想的、道徳的なことは、家庭教育や地域での学びから摂取しているということだと思います。

 

どんな空気の中で育つか、どんな人たちに囲まれて育つのかが、人に大きく影響を与えるということかもしれません。

 

そういう意味では、学校でも、新しい時代の雰囲気に染め抜かれていたなら、その新しい雰囲気で子供もある程度、感化されるかもしれません。

 

しかし実際には、大人が古い時代の文化風習から脱していないことがあって、それで教えている内容が近代的でも、そこに広がっている雰囲気は前近代的ということがありえるかもしれません。

 

新しい時代の到来は、一部の人にしか感知されない、一部の人にしか受け入れられないということを踏まえると、ノンポリ学生はいかに若くても、昔の文化風習の中で育ち、昔の文化風習を受け継いでいる保守的な人間ということになるんじゃないかと思います。

 

古い時代に取り残されていると、今だと、昭和の人間は去れ、みたいに馬鹿にされるので、肩身が狭くて、新しい文化を学ぼうとする人もいるかもしれません。

 

しかし特定の時代に取り残されている人が大勢いて、仲間を作って、仲間内ではそれが当然みたいに考えていると、居直ってしまい、新しい考えの人たちを馬鹿にしたり、抑圧したりしてくることが考えられます。

 

新しい時代は客観的事実として到来しているので、古い時代に取り残されている人は、周囲の世界と齟齬をきたすはずですが、同じ考えの人が古い文化風習を現在でも実現しているために、月や火星の宇宙コロニーのように、その人たちの周りだけ自分たちにとって居心地のいい空間ができているのだろうと思います。

 

もし新しい時代の到来を無視して、周囲の環境とのギャップをますます増大し、いつかカタストロフィーを起こすことで、今までの怠慢を清算しなければならなくなるようなことが嫌だと思う人がいたら、初期のキリスト教の宣教師と同じような立場に立つ必要があるのかもしれません。

 

つまり周りには別の信仰を持つ大勢の人がいる中で、強烈な説教を行って、一人ずつ人々を感化していかなければならない、ということです。

 

逆に、今、新しい時代の到来に気づくことができている人は、実際に過去世でキリスト教やその他の新しい宗教の説教を聞いて感化された人かもしれません。

 

何万年も続く、古い文化の中でずっと生きてきた人が、最初に新しいものを受け入れるのは、かなり難しい気がするからです。

 

このように考えてくると、ノンポリ学生が何かの怠慢をしているということではなくて、むしろ古い時代に取り残されている膨大な人を、一人ずつ救い出し、現在起きていることに適応してもらうように、先を行く人が頑張らなければならない、という問題じゃないかと思えてきます。

 

政治観や宗教観で、先鋭的な立場を取らずに、穏健な立場を取る人を、ノンポリ学生と呼ぶ時には、それはあながち否定すべきものでもないように思えます。

 

しかし、ノンポリ学生が、古い文化風習にどっぷり浸かっていて、新しい時代の到来を無視する人ということであれば、今でなくてもいつかはその態度を改めなければならない時期が来るんじゃないでしょうか。

 

時代はこの先も変わっていくので、取り残された人は、本当に取り残され、人類から分離されてしまう未来につながる恐れがあるからです。