英語の本で、大衆のことを、「最も幅広い層の人々」と表現してあるのを見たことがあります。(うろ覚えだけど、そんな感じだった)

 

ここから汲み取れることは、階級のように下にあるとか中間にあるという意味はなくて、単に最も数が多い同質の人間集団ということしか意味していないことです。

 

でも実際問題、この最も数が多い人々がどう考え、どう行動するかが重要で、そこに注目が集まるということがあります。

 

なぜかというと、民主国家では、多数の人たちの思惑と一致して、全体の運営方針が決められることが望ましいからです。

 

そういう制度だから、というのがひとつの説明です。しかし、政府の要職者に独裁的な人物が現れて勝手に決めてしまうということがあります。その場合、多くの人の考えは顧慮されないか、無視されます。

 

それでも、最も幅広い人たちの意見を無視すると、多くの人の反発や離反を招くことになるので、政府機能や社会機能が麻痺する恐れがあるし、そもそも独裁的な人物がなぜ決定権を握っているのかの正当性が証明できなくなる(多くの人が決定に反対し、認めていない)ので、自分の権力基盤も不安定になってきます。

 

封建制や身分制など、中世以前の制度に、人々が慣れ親しんでいる場合は話は別で、その場合は、頂点に立つ人が末端の人たちに相談なく勝手に物事を決めたところで、それは当たり前のことだと認識されるだけでしょう。

 

近代になると、末端の人まで、自分で考え自分で決定する能力を、徐々に身に着けてきており、思考や決定の及ぶ範囲が、自分の管轄する領域だけでなく、社会全体に広がってくる傾向があります。

 

それで近代という時代に合わせて、生き方を刷新してきている人々が多い地域では、独裁は成り立ちにくくなっていると、ひとまずは言えます。

 

独裁が成り立ちにくいだけで、成り立たないわけではないというのは、独裁を進めるために、ハードな弾圧とソフトな弾圧の両方の技術が発展してきているからです。

 

多くの人たちの意見を無視して、勝手に全体の決定を行うことは、やりづらいことになっていますが、どうしてもそうしたい場合は、いろいろやりようはある、ということだと思います。

 

それで民主主義国の問題は、古い時代に囚われていて、社会的決定に口出しすることを遠慮する人たちがまだ残っていることであり、また独裁政治の技術が発展しているために、自己決定の意志や社会参加の意志を持っている人が多くても、抑え込まれたり丸め込まれたりすることがあるということです。

 

そして大衆の意見は、基本的に独立していて、個人が大衆に訴えかけることはできますが、結果賛同してもらえるかどうかは未知数ですし、実際問題あまり効果は望めません。

 

大衆が意見を変える時は、何かの流れの影響を受けてのことが、おそらくは多く、人間個人の影響というより、多くの人の動きが作り出す個人を超えた流れの影響を受けてのことだと思われます。

 

それで民主主義国の動向を知るには、世論調査の結果がどう出ているかを参考に見ることしかできず、一人の人間がそこに訴えかけて意見を変えてもらうということはなかなかできません。

 

真心を込めて、わかりやすく説明し、自我を持った存在に向かってお願いするということをやってもあまり成果が出なくて、人々の一般的性質を把握した上で(こういう時にはこういうふうになる)、欲しい結果に流れてくれるように、原因をイリュージョンのように作って見せるというやり方が有効となっています。

 

要するに、きちんと説明するより、心理的な誘導の技術を使った方が、結果が伴うということです。

 

大衆を相手にする時に、理性と判断力を備えた存在に向き合う態度ではなくて、うつろな精神を持った動物の群れを相手にするような態度の方がふさわしいと感じられるのは、どういうことでしょうか。

 

それはまず、相手が一人ではなくて、大勢であるからでしょう。ひとつの演説を聞いて、どう感じるかは、多くの人がいればいるほど、多くのパターンに分岐していくと思います。しかし大衆の意見は全体を総合しなければならないので、あらゆる方向に分岐する意見をひとつにまとめると、ひとつの像を結ぶようなものにならないし、最も優れた人の意見に引きずられることはあまりなくて、あまり理解力のない平均的な人の意見に引きずられるので、愚鈍な存在の印象を受けるのではないかと思います。

 

大勢に向かって話をしても、よそごとを考えてしまって聞いていないという人が出てきますし、そういう人の数が多いということだと思うので、話が長いなあ、退屈だなあ、しんどいなあ、帰りたいなあというのが、一番多い意見になるかもしれません。

 

またちゃんと話を聞いてくれたとしても、話を聞いて理解して判断したことが出てくるのではなくて、話を聞いて触発されて出てきた感情がそのまま表現されることになると思うので、理性的ではなく感情的な印象を受けるのではないでしょうか。

 

それでもいくら大勢といっても、個人の集積ではあるので、その国の個人がどのように生きて、どのように他の人に影響を与えてきたかの蓄積が、全体にも反映していると思います。それで国民性というものがあるし、国民性も発展していくもの(あるいは衰退することもある)だと思います。

 

なので国民の意見、世論に変化をもたらそうとしたら、個人が頑張って生きて、他の人に良い影響を与えるということを、時間をかけて、できるだけ多くの人がやることが有効で、それはすぐにはできないことなので、逆に言えば即効性がある改善方法が見当たらないことになるのだと思います。

 

国民性を改善することは、なかなかできないのに対して、国民性を劣化させるには、個人からの働きかけ、有力な個人の働きかけで、相当の効果をもたらすことが可能かもしれません。

 

善悪の基準を示す立場の人が、悪いことをする人を出世させて、良いことをする人に罰を与えると、簡単に国民性を劣化させることが可能かもしれません。そんなことでいいのなら俺も悪いことをやってやろうみたいに、善悪のはざまで揺れている人を、悪の道に誘うことができるだろうからです。

 

全体的には、国民性や世論を、自分が力を得るために使うという発想の人が多くて、国民性や世論を育てていこうとする人が少なく、さらに地域密着で地道に活動しているために、その人たちの声が広く伝わることがなくて、改善の流れよりも、悪化させる流れの方が、数倍協力になっているのだろうと思います。

 

大衆に訴えかかて、すぐに結果が欲しいと思う場合は、一人一人の自我の独立や、精神活動の自由を尊重していたとしても、自分のために刈り取りを行う行為であり、種まきや育成の行為ではないということが言えるかもしれません。

 

実際、選挙で賢い投票を求める人や、悪政を善政に変えたいと思う人も、一人一人の賢察を求めるだけでは済まないで、どぶ板選挙的な、誘導的技術に頼ることになっています。理解はしていないけど、一生懸命やっている人がいるから応援しよう、みたいな発想でも、ありがたく受け取るということになっています。それは、世論の進歩ではなくて、世論の現状維持ですが、同じ世論の状態で、より良い成果を得ようとする試みです。

 

個人に関しては、もし自分が幸せになりたいのであれば、幸せに値する人間に、まず自分自身を進歩させることが、近道になると思います。幸せに値しない人間でも、恵みとして幸せが与えられることもあるかもしれませんが、不幸が与えられても、そんな人間性にとどまっているなら仕方がないという結論になるかもしれません。

 

不幸は、自分が過去に行ったことの結果である場合があります。そして不幸という逆境を得て、未熟な自分自身を改善していくきっかけにすることができます。不幸の原因は、周りの人たちの行為の結果であることもあり、自分のせいではない場合がありますが、それでも逆境は人を鍛えて改善するきっかけにできるのだろうと思います。

 

大衆や国民についても、基本的には同じことが言えるような気がします。

 

もし不幸を避けたいのであれば、幸福が似合うような人間にまずならなければならない、という原則があるんじゃないでしょうか。

 

幸福よりも不幸が似合う状態なら、逆境を得て、いちからやり直すことが必要なことかもしれません。

 

自分が、逆境を得て一からやり直すべき国民の一部である場合、基本的にはお付き合いするしかないのかもしれませんが、改善を促進する側に立とうとすることはできるかもしれません。

 

あるいは、改善のプロセスに入るとしても、より深刻な状況で頑張るか、もう少しましな状況で頑張るかが選べるのであれば、よりましな状況を求めていくことが正しいでしょう。

 

なぜなら、あまりにもひどい状況の下では、改善が進むことはなくて、停滞やさらなる悪化が起こる可能性もあるからです。

 

転落の道に向かっている人々と一緒に転落する時には、もしそこで活動的に振る舞いたい場合は、一部、外国に足場を持たせてもらうという選択がいいのかもしれません。

 

使える資金や使える資源がほとんどなくなってしまえば、活動も停滞してきますし、ひどい時には生存も難しくなる場合がありますので、もう少しましな活動環境、生活環境を求めて、外国に間借りさせてもらう選択はあるかもしれません。

 

それが無理な人は、心の持ちようの問題になりますが、時間的に越境をして、死を越えて、来世にまで続く課題として、この問題を受け止めればいいのかもしれません。

 

死んでも人生は終わらず、果たせなかった課題は来世に持ち越されると考えると、今世ではできるところまでやればいい、ということになりますし、道半ばで力尽きても、それはそれで構わないという発想になるんじゃないでしょうか。

 

苦しみも進んで引き受けるという境地にはなかなか達することができないと思うので、死に近づく時に、見苦しい振る舞いをすることになるかもしれませんが、死んだら終わりと考えているよりも、来世があると考えている時の方が、あわてふためく度合いが少なくて済むんじゃないかと思います。