ゲームの世界では、一部のMMOーRPGのように、協力してプレイすると楽だが、一人では攻略が難しいものがあります。また協力プレイが前提となっていて、自分一人だけではできないものもあります。

 

そういう時に、自分には友達がいないわ、とか、人望がなさすぎて誘っても誰も応じてくれないわ、と自覚させられるのかもしれません。

 

そういう悟りは、半分は賢いと思いますが、半分は考えすぎのところがあるように思います。

 

僕は鈍感なので、普段は自分に人気がないことに気が付かずに生きていて、たまに、ああ自分には人気がないのかとふと気づく感じなので、完成が鋭敏な人に比べて、気楽に生きられているのかもしれません。

 

物事に両面があるように、この種の鈍感力にも両面があり、自分が好意を持って見られていないことに気が付かないで、どこにでもズカズカと入って行ける点は、自分にとっては良い点なんですが、あちこちで周りと不協和音を奏でて、後で振り返って、何が起きていたかを自覚させられた時に、惨々たる光景が展開していて、恥ずかしくて死にたくなる危険性があるとも言えます。

 

さらに鈍感な人は、そういう恥の自覚を持つ瞬間もなくて、自分自身の心は平穏無事だと思いますが、無自覚なだけに、自己意識的な人と比べて、より多く周りに被害を及ぼすことがあるかもしれません。

 

自分が何をしているのか、自分がどう見られているのか、そんなことに気が付かない生き方は、悪く言えば、忘我的・無意識的だと言えますが、良く言えば、素朴・企みがないと言えます。

 

それと比べると、やはり自己意識的なあり方をしている人の方が進歩していると考えられます。

 

自己意識が過剰だと、考えが勝ってしまい、行動が疎かになるかもしれません。訓練すれば考えを行動につなげることは可能ですが、訓練されていないうちは、むしろ考えない方が行動しやすくなるという仕組みになっていると思われます。

 

それで自己意識的な道をまだ先に進んでいない人や、自己意識が過剰な人は、くよくよ考えて、行動に移すのが遅い傾向があるのではないかと思います。

 

素朴な人は、考えがあまりなくて、無意識から発する衝動が行動に直結するし、行動は伝統文化によって規制されているので、伝統文化が求める意味のある行動を、そういう人は持続的に力強く取ることができるのだと思います。

 

案ずるより産むが易し、ということわざは、自己意識的な人にも該当すると思いますが、無意識的な人とは違って、自分の行動が周囲と不調和になる可能性について事前に察知できるので、これはやめておこうと、ストップをかけることが多くなり、周囲と摩擦を生んでも気にせずやりたいことをやってしまう人とは違う人生の姿勢となります。

 

これについては、周囲と調和する形を狙って行動に移すということができれば、さらに進歩を遂げられる、ということだと思われます。

 

周囲と不調和な行動は避けるという段階から、周囲と調和する形を見出してそれを実行するという段階に移行できればいいわけです。

 

恥知らずと恥を知る人とでは、恥を知る人の方が文明的ですが、恥を知る人がまだ行動力を身に着けていない間は、野蛮な恥知らずの方がいいじゃないかと評価されてしまうのだろうと思います。

 

以上のような基礎的な理解を持って、自分の人気のなさ、人望のなさの自覚を語る行為を振り返ると、なので人と関わらないという方向ではなくて、どのようにすればお互いにとって良い関係になるかを考えて人と関わるという方向に行ければいい、ということになると思います。

 

世の中には自己意識的な人ばかりでなくて、素朴な人もいるので、そういう人の場合は、相手が何を考えているかにはあまり関心がなく、伝統的なマナーに一致しているかどうかを見ているに過ぎません。そういうところでは、真意は理解されず、型に合っているものは褒められるし、型から外れていると、どんなに真心を込めた行為でも理解されない、ということが起こります。

 

型に合っている場合は、(相互理解は諦めなければなりませんが)人間関係で苦労することはあまりないかもしれません。一方で、型から外れたことを敢えてやる必要がある場合には、激しい抵抗に遭って苦労するかもしれません。

 

ある程度、自己意識的な人を相手にする場合には、相手の内容の質を察知して値踏みして、付き合う価値がないとか、付き合うと面倒そうだと感じられたら、拒絶されることがありえます。

 

それはまあ、お互い様なんだろうと思います。たとえ善意を持っていて、好意に対しては好意で返したいと思っていても、不器用すぎる人や、勘違いが過ぎる人を受け止めるには、それだけの度量や覚悟が必要になるので、ちょっと自分には無理だとなるかもしれません。

 

一方で、災害時のがれき撤去のボランティアのように、深く付き合うわけではなく、必要な仕事をして手助けをして、そのまま分かれていく関係性だったら、幅広い人を受け入れられるのだろうと思います。

 

外国から出稼ぎに来ている人が困っている時に、手助けをするという場合でも、他に助けてくれる人がいない時には、だいたい誰の親切でも役に立つんじゃないでしょうか。ここで全員とは言えないのは、自分を振り返る能力や、自分をコントロールする能力が不足していて、親切をしているつもりで傷つけてしまう人もいるからです。

 

親切をしているつもりで、嫌な気持ちにさせることをしていることに、後で自分で振り返って気が付くというのは、恥ずかしくてきつい経験ではありますが、よくよく考えることを先行させて、失敗が少なくなるようにするという手もあるものの、失敗して反省することの繰り返しでやっていくということもあってもいいと思うので、やはり僕はあまり考えすぎない方がいいとか、未熟な人が失敗しながらやっていくことが標準になってもいいんじゃないか、というふうに、とりあえず思います。

 

度が過ぎた鈍感力を持っていて、人の迷惑に全然気が付くことができずに、日々新たに被害を生み出していく人のことは、かばえないので、鈍感力がいいとは言えないんですが、恥を知っている人が行う、洗練されていない自己表現とか、周りから受け入れられなかった自己表現を、誰もかばってくれなくても自分でかばってもいいんじゃないか、とは思います。

 

ゲームのマルチ・プレイの話に戻ると、友達がいなくて自分にはできないゲームがあるというのは、何となく寂しい感じがするものですが、かといって実際にそのゲームがやりたいかというと、そういうわけでもなかったりします。

 

そして、ずっと、やりたいやりたい、やろうやろうと言っていたら、応じてくれる人も出てくるかもしれませんが、そうなった時には、予定を合わせて、一定時間はやらないといけないし、自分の都合ばかりを相手に押し付けるわけにもいかないでしょう。向こうがやりたくてこちらがやりたくない時もあるかもしれません。

 

こう考えると、この人となら一緒にやってもいいと思ってもらえること以外に、いろいろ問題があるんじゃないかと思えてきます。

 

一人分の仕事をしていれば、それでノルマ達成で、後は余暇時間を楽しめばいい、というような時代ではなくなってきていると思いますので、そもそも公共的感覚を持っている人は、ゲームをする時間が作れなくて、好きでも諦めているかもしれません。ゲームをする場合でも、面白かったらそればっかりやっている、というわけにはいかなくて、他の用事があったらそちらを片付けてから戻ってくるという感じになるでしょう。そんな中で、家族以外の人と一定時間一緒に過ごすということが、困難になっているんじゃないかと思います。

 

どうせ時間を使うのだったら、ゲームではなくて、キャンプとかの方がいいということになるかもしれませんし。