ノーヘイトTVを見ると、野間さんが原口一博さんの話題を取り上げていました。野間さんは原口さんに対しては多少手加減してくれている感じでしたが、陰謀論に傾斜していて、トランプ支持者で、ファシズム化の流れを促進する危険人物と見ている感じがしました。
手加減している理由は、いい人だから、ということみたいです。
歌手のアスカさんのことも問題視していましたが、アスカさんも呼び捨てではなくて、敬称付きになっていました。長渕剛さんも昔から民族主義的な発言をしているみたいですが、野間さんは長渕さんのことも敬称付きで呼んでいました。
このお二人に関しては音楽家なので、音楽ライターの野間さんは音楽家のことを悪くは言いたくないという気持ちなんでしょうか。それとも別の理由があるんでしょうか。
最近原口さんたちが取り組んでいる、外国人の犯罪に対してどのように予防措置をとるのかという問題については、具体的にどういう被害や危険があるのかを聞いてみないと何とも言えない感じがします。
何もないのに騒ぎ立てて、排外主義を盛り上げようとする人もいるので、そういう人たちとは違うところを、具体例によって示してもらわないと、聞いている方は違いがわかりません。
右派の方で、外国人の犯罪に対して警鐘を鳴らす動きがあると、左派の方では、警戒感が強まります。
多分この理由は、ひとつには現場で外国人の人権がないがしろにされるのを見ていて、何とかしたいと思っているのに、それを改善するどころか、さらに抑圧を強める運きばかりが出てくることへの恐怖や憤りがあるんだろうと思います。
そしてもうひとつ考えられることは、第二次対戦後に形成された、反ファシズム運動の定型の中に、ファシズム化は全権委任法成立の段階にまで進むともう誰も止められないので、できるだけ早く、芽のうちに頑張って摘んでおくことが大事という考え方があるからだと思います。
この運動観の持ち主にとって、行き着くところまで行った状態は「ジェノサイド(大量虐殺)」で、そこまで行く前に、初期の段階で芽を摘むことを考えます。
ヘイト・スピーチをやめさせなければならないのは、ヘイト・クライムにつながっていくからであり、それは最終的にジェノサイドに行き着くという理屈です。
陰謀論の中には、ユダヤ人悪魂説(反ユダヤ主義)があり、これは行き着くところまで行くとホロコーストになる、と考えることができるわけです。
イスラエルによるジェノサイドとなると、従来の文脈では、保護しなければならないはずのユダヤ人が虐殺する側に回っているということで、ややこしくなっていますが、人命尊重という基本原則を踏まえると、誰であれ虐殺は許せないし、その初期段階である差別の煽動も許されない、という考えに至ることは可能だったようです。
僕の考えでは、民族主義は排外主義と接点を持っており、また民族主義は個人が進んでそこを離れて個人主義に移ることがなければ、個人と深く結びついているものであるので、他人が口出しして、民族主義者を民族主義者でなくすることは、基本的にはできないんじゃなかと思っています。
それで自信たっぷりの民族主義者に、少し遠慮がちな民族主義者であってもらうことはできても、民族主義者を民族主義者でなくすることは困難だろうと思われます。
民族主義は感染症のように感染して広がるものではなくて、時代の変化を受け入れて個人主義者になった人以外の人の中に色濃く残っているものだと思うので、それが十全に表現されるか、遠慮がちに表明されるだけにとどまるかの違いがあるだけで、基本的にはなくならないと思われます。
それで芽のうちに詰むという治療のモデルは、実際の状況とはあまり合致していないような感じがします。
居丈高になっている人をたしなめることは可能だし、やった方がいいかもしれないですが、芽吹いたものを取り除くことはおそらく困難で、ただ引っ込めただけで次に芽吹く機会を伺うようになっているだけのような気がします。
それでむしろ、自分の中を見て、民族主義があることを感じるものの、昔のやり方は改めて、時代に合わせて変えていく方がいいという、修正・民族主義者、穏健・民族主義者の人とは協力していった方がいいんじゃないかと思えるのですが。
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他に野間さんが問題提起していたことがありました。それは「日本でデモは可能か」という問いに意味なんてあるの、ということでした。
これは多分、日本のマルクス主義運動の文脈から出てきたものじゃないかと思われます。
日本でも社会主義の革命運動を起こそうとしたけど、全く人々の支持を得られなかった。社会主義の革命運動だけでなく、民主化を求める民主主義運動ですら広がりを持てなかったということもあります。
自由民権運動も、社会主義の革命運動も、ある程度の広がりは持ちましたが、フランス革命、ロシア革命、フランスやイタリアの反ナチス・レジスタンス運動のように、厳しい環境の中で勝利を得た運動と比べると、圧倒的な力不足を感じるということだと思います。
それで、ただ意志表示をするだけのデモですら日本でできない、人々の理解も支持も得られないということに、絶望的な思いを抱き、何が原因でどうすればいいのだろうという議論が、論壇や文壇の周辺で起こっていたということのような気がします。
野間さんの側からどう見えるかというと、フランス、イギリス、ドイツなどと比べると、デモの規模は小さくても、日本でもデモはできているし、熱気もあるし、活力もあるので、しのごの言わずにやればいいだけじゃないか、という感じなのかもしれません。
革命運動は、政権転覆に至らないと失敗という評価になるのかもしれませんが、人権擁護運動が要求を出してそれを通したか、そこまで行かないでも社会的にインパクトを与えたという事例はたくさんあるので、体制転換を成し遂げないと意味がないという厳しい評価基準を取り除くだけで、日本にも素晴らしい運動がいっぱいあったという評価ができるのかもしれません。
結局、今デモは可能かなんて問いかけると、意味がないんじゃないか、何も変えられないんじゃないか、費用対効果が薄いんじゃないかと、ネガティブな意見を出すだけになって、むしろ運動の足を引っ張ることになる、のかもしれません。
権力を持っているグループやそれに追従するグループは、自分たちの権力を盤石にして、他人に口出しさせたくないという別の理由から、デモなんて迷惑だ、意味がない、危険なことがいっぱいある、外国人の協力があるなどと、デモ潰しを画策しているので、左派の知識人も意図せずこの動きに協力してしまうということも考えられます。
多分、日本の市民運動、労働運動は、弱く、さらに弱くさせられているので、かばって少し強める方がいいと思われます。追い詰められると余計に先鋭化するし、弱すぎると消費者や労働者の権利がないがしろにされるので、市民運動、労働運動が弱すぎることは社会のバランスを崩すと考えた方がいいように思います。
しかし既に、左派の運動が追い詰められていて、暴力的にまではなっていないものの、言葉の上で厳しくなっている部分があるのかもしれません。
右派についても同様で、戦後の長い間、厳しく抑圧されてきた記憶があって、この期に及んでも、巻き返しの時だと盛り上がっている状況なんじゃないでしょうか。これも窮鼠猫を噛む的な状況なのかもしれません。